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森と人間と林業―まえがき

二項対立から三位一体へ――生産林の再定義

客観的には日本林業の環境は好く展望も明るい。ところが林業人の主観ではコトは全く正反対なのである。日本林業を取り巻く環境は厳しく、だから苦しい状況に立たされており、展望も暗いと思い込みがちである。つまり日本林業衰弱の原因を、安価な外材の殺到や人口減少による木材需要の縮小といった外在的なものに求め、自らの経済的・技術的未成熟さといった内在的なものとはしないのだ。しかし原因が外在的なものであれば、林業界は自力ではどうにもできず、日本林業は出口なき闇黒(あんこく)のトンネル内に立ち往生するのみである。ところが現実を直視すれば、幸いにも原因は内在的なのだ。そうであるならば林業は自らの改革によって容易に回生できる。

本書はこうした考えのもとに、日本林業復活の道を、ただし辛口で述べる。辛口といったのは、現状の日本林業を分析すればするほど改善すべき難点がいくつも発見されるからだ。したがって日本林業の復興とはこの諸難点の克服なのである。だからこの書はいうなれば説得の書と受け取ってもらってもよい。筆者は勢い国の林業政策を厳しく批判する。なぜならそれは森林・林業に大きな影響を及ぼすものなのだが、日本林業再生の道を逆走しているからだ。控えめにいっても的を外しがちである。したがって日本の林業人は国の施策に拘束されることなく、自らが主体的に選んだ道を歩むことが正道だと筆者は提言したい。

森林には大別して「物材生産」「環境保全」「レクリエーション」の三機能がある。環境保全とレクリエーションを合わせて「公益的機能」といっておくと、従来の認識は「生産林対公益林」「生産林か公益林か」という二項対立である。現実においても両林はまま衝突してきている。そこで本書は二項対立を斥(しりぞ)けて、三機能林が一体である林業に進化する道、すなわち一つの森林に三機能を同時に発揮させ続ける三位一体の近代林業へと日本林業を改造することを提案する。そのためには生産林を定義し直すことがぜひとも必要なのだ。

日本の場合、ほとんどの生産林の存在形態はこうである。①スギならスギだけの単純林、②各林木が同じ樹齢の同齢林、③上木層だけで下木層が(場合によっては林床植生まで)無い単層林、④そうした林木を一斉に伐採する皆伐林、⑤皆伐跡地に再びスギならスギの苗木を植栽する人工林、という皆伐系同齢単層単純人工林である。だから現在の生産林は農業類似の「木材栽培業」だといえる。

これに対して筆者は次のような生産林を望ましいとする。すなわち①さまざまな樹種から成る混交林、②林木の樹齢がさまざまな異齢林、③上木層の下に何段階もの中下木層と豊かな林床植生のある多層林、④木材を伐採しても森林状態が維持されて森林を裸地化しない択伐(選択された林木のみの抜き伐り)である恒続林、⑤林木の再生を人工造林法と天然更新法を併用して行う人工天然林、⑥自然の法則に則り、自然林に構造と様相が酷似した施業林――と生産林を定義しなおしたい。

つまり従来の林業観では生産林に向かないと看做(みな)される「合自然的で近自然的な異齢多層混交状態が恒続する人工天然林」に生産林がなるのである。こうした生産林を集約林、正確にいえば一本一本の樹木を丁寧に吟味して扱う知識集約的林業というのだ。これを「単木施業」とも呼ぶ。

そうであればこそ林業が林業従事者に高所得をもたらし、需要を満足させ、森林の生産・保全・レクリエーションという三機能を一体化させるのだ。局面を変えていえば時間的にも場所的にも集中して行う少品目(場合によっては単品目)大量生産を志向する従来の林業を改めて、日本林業を時間的にも場所的にも分散して行う多品目少量生産である林業生産に変革することである。いわゆる「スケールメリット」は狙わない。こうした林業こそがエコロジカルにしてエコノミカルなのだ。近代林業とはこのように森林を造成し利用する営為なのである。

すると日本の林業構造が個々の森林(林分)は大所有といえども小規模であり、多くの場合分散していることはかえってメリットだ。自ずと分散的多品目少量生産になるからである。日本林業における大規模所有とは小面積の林分を所有権で集積しているにすぎないのであって、だから大規模経営ではない。平均的な林分面積は森林の所有規模に関係なく0.7haと思えばほぼ間違いはない。

こうして生産される少量雑多な木材を集材し、用途別に仕分けして、それぞれの商品種目を欲する需要先に分配するのが流通である。この場合、生産そのものを統合してはならない。だから生産それ自体を集積して大規模化しようとする林野庁の施策は全否定せざるをえない。また、流通は近代林業に不可欠な情報活動のメディアでもあるのだが、日本の林業はこの点について機能障害に陥っている。

したがって「木は売っているのではなく、単に買われているにすぎない」という傾向が「川上」になればなるほど強いのだ。換言すると「川上」になるほど木材取引において主体性が減衰する。これが再造林を不可能にするほどの立木価格の異常なまでの低さという昨今の悲劇的事態をもたらしていると筆者には思えるのである。

ところが林野庁は専ら木材生産の大規模化と労働生産性向上によるコスト低減でもって価格低迷状態から脱出させようとしているのだ。いわゆる「高性能林業機械」の使用が強く慫慂(しょうよう)される所以(ゆえん)である。そこで高性能林業機械の稼動に便利なように生産を統合させることが新林政「新たな森林管理システム」の目玉となっている。これはベッドに合わせて足を切るの類いだ。

本書はこのような問題意識と目的設定を述べてみた拙い小品である。そこで脳裏に浮かぶモデル像はドイツの近代林業である。とりわけ担い手問題でドイツを見習う必要がある。なぜなら日本には近代林業を担える「プロ」の林業人がきわめて少ないからである。いや、事態はさらに悪化している。「素人」的林業従事者を含む林業の担い手一般が極度に不足している。この人材問題が日本林業の最大の難点である。だからこの問題を克服することが日本林業の夜明けなのだ。

ではどうすれば夜の帳(とばり)は開けるのか。それについても具体的に提言した。林業従事者に高所得をもたらし、彼らの社会的評価を特段に高め、したがって林業をドイツ人がいうところの「ノーブルな職業」たらしめる――本書はこの日本林業近代化の道を模索する一試論である。

ここで拙著への予想される批判に対する予防的弁明をしておこう。筆者は自らを「新京都学派」の一員とするし、ロマン主義を肯定的に論述する。しかし筆者の本意は加藤周一が次のように厳しく批判する戦前戦中のいわゆる京都学派と日本浪漫派とは一切無関係である。筆者のいう「新京都学派」とは四手井綱英・荻野和彦の「京都森林生態学」と半田良一・森田学・有木純善の「京都林業経済学」、さらには今西錦司、宮地伝三郎、川那部浩哉らなのだ。

加藤はその名著『日本人とは何か』(講談社、1976)でいう――
「太平洋戦争の段階で戦場に追いたてられた世代の知的な層にとって、いちばん深い影響をあたえたのは日本浪漫派と京都哲学の一派」、「二・二六事件(1963)以来のファッシズム『新体制』を正当化し、中国侵略戦争と太平洋戦争に理論的支持をあたえようとしたのは、日本浪漫派と京都学派の一派」

また、戦中でも戦後でも思潮の主流は「近代」とは超克されるべきものとする。にもかかわらず筆者は「ドイツ近代林業」を大肯定し、「日本林業近代化」を提唱した。そのことに対する批判には、加藤とともにこう反批判したい。
「そこで『超克』しなければならないという『近代』そのものが、果して日本に存在しているのか」

さらには、「西洋に追いつき追いこせ」なる発想は今や超克すべき精神態度だという思潮が昨今の主流であることを承知してはいる。にもかかわらず筆者はドイツ近代林業をモデルとする。それを乗り越えるには日本林業はあまりにも未成熟だからである。例えばドイツ近代林業が完全に打破した旧林業である「木材栽培業」(だから人工林の「木材栽培工場」視)の段階に日本林業はいまなお停滞しているからである。

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