ウクライナ 「記憶をめぐる戦争」で考えたこと

2022年6月7日付朝日新聞「ロシアとウクライナの『記憶』をめぐる戦争」という記事を読んで考えたことを書こう。
ソ連市民として膨大な犠牲を出しながらナチスと闘い、ファシズムから世界を救った大祖国戦争(独ソ戦)の当事者としては、ウクライナ人もロシア人も同じソ連市民であった。しかし、ウクライナが、独立した国民国家としての正当性を獲得するためには、ソ連市民としての過去はどのように解釈されるのだろう。
日本に置き換えてみると、大日本帝国の臣民として鬼畜米英と闘い、八紘一宇をかかげ、アジア諸国を侵略した日本人は、20世紀の後半、海外からは懲罰として与えられたようにしか見えない日本国憲法のもとで、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」生きてきた。日本国憲法は、一晩で10万人の非戦闘員を焼き殺される中でどうにか生き延びた、近代戦争のリアリティを身をもって体験した私の親や、祖父母の世代にしてみれば、懲罰どころか、至極まっとうな憲法に見えただろう。
しかし、臣民としての立場はどこに行ったのか。記憶をめぐる戦争のねじれは、どのように解消されるのか。
ウクライナに関していえば、今回のロシアによる侵攻は「反ロシアとしての国民創世神話になりました」(青島陽子北海道大学准教授)。記憶をめぐる戦争の、ねじれ解消につながるのかもしれない。
一方、ねじれたままで戦後77年目の夏を迎えようとする日本は、ねじれそのものを無かったものにしようとするのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?