学校の街、築地

築地というと、昨年、移転した魚河岸が有名だったが、360年ほど前は、海の底。1657年に江戸城まで焼いた明暦の大火のあとに、その瓦礫を埋め立てて造成された土地だ。造成後は、築地本願寺を中心にした寺町や、大きな大名屋敷が立ち並んでいた屋敷町だった。
忠臣蔵で有名な5000坪の浅野内匠頭の上屋敷があったのは、元禄時代。下って安永時代の中津藩の屋敷では、『解体新書』の翻訳が行われ、幕末には福沢諭吉が蘭学塾を開いた土地だ。二十歳すぎの坂本龍馬が、今の八重洲ブックセンター(東京駅八重洲南口)の裏にあった、剣豪千葉周作の弟が主宰する千葉道場へ通ったのも、現在の京橋図書館にあった土佐藩の屋敷からだ。
明治はじめには、藩邸群が取り払われて外国人居留地ができ、多くの学校が開学した。築地発祥の学校といえば、福沢諭吉が開いた慶應義塾や、勝海舟が開いた海軍兵学校(海軍操練所)が有名だが、キリスト教の宣教師たちが開いた学校群がほとんど築地起源である。ざっとならべると、女子学院、明治学院、聖路加看護大学、雙葉学園、暁星学園、青山学院、東洋英和、関東学院大学など。
特徴的なのは、女性教育が盛んだったことだ。フランスのカトリック教会の流れをくむ暁星と雙葉を除けば、すべて、プロテスタントの宣教師やその家族が始めている学校だ。良妻賢母を育てることを目的とする日本の女子教育機関とは、ずいぶんと趣が異なったらしい。米国留学から帰国した、今度5000円札に描かれる津田梅子も、いっとき築地で教鞭をとっている。
出版と印刷の文化も、ここで花開くことになる。これは言葉を変えれば、築地はキリスト教の各派ミッションが集まった教会の街であった。江戸時代に結ばれた条約によって開かれた横浜、神戸、函館、新潟などが、交易港として栄えたのとは対照的だ。
余談だが、築地に隣接する新富町に外国人居留区からのお客も当て込んで開設された大規模な新島原遊郭(京都の島原遊郭にならって名付けられた)が、あてがはずれて商売が成り立たず、新富座を中心にした芝居の町になったのもうなずける。外国公館、教会、ミッション系の学校ばかりの町では、見物はしても、店に上がってくれなかったようだ。

追記:小社の脇、今は埋め立てられた築地川河畔で大規模再開発が行われているが、5棟10棟ではきかない(中央区の埋蔵文化財担当者への取材による)ほどの土蔵群が出てきて工事がストップ。発掘調査が進行中だ。発掘調査の見学は所有者の意向で残念だが不可とのこと。発掘調査レポート出版を待ちたい。

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