「わかってない」はどれだけ隠したところでくっきりわかるよ
エゴの曇った目でいくらなにをどうみたって、その情報量ではわからないことがいっぱいあるんだよ。
ちゃんと見えれば、「私は光側だから」「私はあっち側にいけるから」、なんて、それが悦にはいれる類のものじゃないことがわかるはずなんだけどね。
自分につながるしか答えはないのに、自分の中身になにが入ってるのかみないから、悪を「倒す」なんて勘違いができたんだよ。
「倒した」の悦は、エゴとの一体感が消えた後、絶望に変わるよ。
自分が倒したものがなんだったのか、その正体がわかるからね。
それは「倒したものの力量を見誤ってるから報復される」とか、そういう恐怖に支配されたエゴ的な発想の話でもないんだよ。
地球的に表現するなら、もっと悲しい話なんだよ。
地球の物語的にいうなら、悪だと悦に入って倒した者の仮面を剥いだらそれが大昔の親友だったとわかる、そういう種類の話なんだよ。
しかもなおさら後悔するのは、その親友の正体を誤解していたのはエゴの幻想に惑わされていた自分だったとわかったときだよ。
この表現が精いっぱいだね。これでもなお盛大な誤解を与えるだろうなとは思うけど、いま忠告したからね。
ここまで見えたあと、「悦」になんて入れるわけがないこと、これでわかった?
しょせん、善悪の二元性でしかものを見られない程度のエゴしか使ったことがないのに、血眼になって「真実」を探したって無駄。
救いたいがどれくらい見当違いの上から目線の目論見だったか、おのずとわかるよ。
自分ひとり救えない無力感をごまかすために、誰かを利用するんじゃないよ。
その誰かもあなたと同じくらいの力を持つ誰かということが、わからないから「かわいそう」だと思うんだよ。
自分の創造力に無自覚だから、その目線がなにを生むのかわからないんだ。
自分の創造力を自覚していたら、そんな倒錯は生まれないはずなんだ。
「わかってない」はどれだけ隠したところでくっきりわかるよ。
わかってないならわかってないを自覚するところからはじめないとなにもはじまらないよ。
自分の中にしか答えはないよ。
エゴに一体化することなく「見守るほうの私」につながり、エゴの声が静かとなる、その視点から世界をながめることを当たり前にするんだよ。
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今日から流れがもうひとつ変わる。
いちど終わり。
次は早くてひとつきご。
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