褒められる事への嫌悪
褒められる事は、もともと嫌いなわけじゃなかった。
大した事してなくても
「すごいじゃん!」
「よくできたね!」
なんて褒められると、まんざらでもない気分になりうかれていた。
多分、褒め言葉の内容でなく、
相手が自分に好意的であり肯定的である事に
純粋に嬉しかったのだと思う。
それが、褒められる事に素直に喜べない事が
ある時期から起こった。
どうしてもその褒め言葉にひっかかってしまうのだ。
本心で言ってるの?
褒めとけば、喜ぶとこっちの事見下げてない?
不快感と共に、妙な疑惑が頭をよぎり純粋に喜べないのだ。
こいつは絶対に嘘を言っている。
こいつは心にもない事を平気で言っている。
こいつの言う事は信用できない。
相手への拒絶反応が強烈に起こり、
社交辞令として受け止めることさえできず
悪意にみちた不快な言葉に聞こえる。
では、私は、何を求めてるんだろう。
褒められる事に、むなしく辛く不快を感じるのなら、
本当は、何を求めてるんだろう。
考えて、考えて、考えて、、、少し分かった。
そして、生き方や仕事を変えることにした。
私は、「ありがとう」と思われたいのだ。
「ありがとう」と言ってくれなくてもいい。
ただ、「ありがとう」と思われたいのだ。
ずっと、自分のやってる事が誰かの「ありがとう」に
繋がっていないようで辛かったのだ。
誰も喜ばない、誰も感動しない、誰の役にも立たない仕事に思えて辛かった。
割が良い仕事だと儲かる仕事だと
割り切ってする事に不毛しか感じないのだ。
その仕事内容の、上手い下手を評価されても
どうでもよすぎて、不快だったのだ。
誰も幸せにしてると思えないなんて、
悲し過ぎる仕事だ。
良くても、悪くても、
どうでもいい気がしてくるのだ。
自分の技術だけあげて
何が楽しいのかさっぱり分からない。
そんな成長なら要らない。
私は、誰かを幸せにしましたか?
私は、誰かを歓喜させましたか?
そうでなければ、褒めるに値しないと、
自分が自分に判断をくだしているのに
なぜかその仕事を続けていた。
それを続けていることへの嫌悪を
自分への嫌悪を、
他者の言葉に転嫁させていただけだった。
その仕事をやめて
そのことが鮮明にわかった。
今はくだらないことを褒められるだけで嬉しい。
焼いたクッキーが美味しいと
言われるだけで嬉しい。
一緒に話をして楽しかったと
言われるだけで嬉しい。
大した技術の向上はないかもしれない、
ただ等身大でそこに生息してるだけかもしれない、
でも、ありのまま居て
それを喜んでもらえるのならば、
その延長線上で私はもっと喜んでもらえるよう
喜んで全身全霊でありのままの自分を
人生で出会う人たちに捧げようと思う。
また、私は褒められること【喜ばれる事】への
喜びを取り戻した。
褒められる事への嫌悪を感じた時、
あれはすごく大事な私の中のシグナル
だったのだと思う。
もっと自分らしく自分を
世界に提供する術に気づくための
シグナルだったのだと思う。
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