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#18 "障害のウラ"「愛は地球を救うけど」

 24時間テレビ。

 そのなかに、このような企画があった。

  甲子園の話題などでこの記事にも引っ張りだこな大谷翔平だが、まさか本記事においては、24時間テレビに関する話題での登板だ。

 この企画について取り上げようと思ったのは、企画に対しての世間の反応があまりにも冷え切ったものになっていたからである。

  このツイートの引用欄を見てもらえばわかる通り、誇張抜きに、この企画に暖かい応援のメッセージを寄せる人間はひとりも見受けられなかったのだ。

 テレビ離れをそのまま体現したような自分がこの番組を見たのは、たしか中学生の頃(約10年くらい前)ぶりなのだが、そのときの世間の反応はここまでではなかった気がする。もちろん、感動ポルノというような批判の声はあった。しかし、それを上回るほどの熱量で、番組や取り上げられる障碍者への応援のメッセージも多数あったように記憶している。

 なぜここまで、24時間テレビは批判されるようになってしまったのだろうか。

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 障碍者と向き合うとき、その中でも重要なことはなにか。

 それは、弱者の加害性とどのようにして向き合うか——ではないだろうか。自分はそう思っている。

 これはあらゆる場面で、往々にして見られることだと思う。ホームレスへの無料の炊き出しを公園で行えば、自転車でやってきた彼らはその自転車を公道に転がすように停めて近隣の迷惑になるし、児童養護施設の少年たちは、新しく女性の職員が来ようものなら荷物を隠したりセクハラをやってみたりとそのエネルギーを爆発させる。そうした彼らの”本性”のようなものを間近で見てしまい、そのキャパシティが少ない支援者から順に心を病んでしまうという光景は珍しいものではない。大学のときも、そんな仲間がごろごろといた。

 弱者を助けたい、この世の不公平を解決したい——そう熱心に語る者ほど、「誰かを助ければその対象からちゃんと感謝され、支援者のおかげで真っ当な道に復帰するようになり、ゆくゆくはその支援者に『あなたのおかげで更生できましたありがとうございます』と伝えに帰ってくる」というような、どれだけその能力に欠陥があろうとも内心の美しさは誰もが平等に持ち供えているという物語を、初めから所与のものとして考えているような節がある。実際にはそんなことはない。彼らは当然のように感謝の言葉など述べないし、また、自分が助けられるのは当然だと考えていて、自分のような存在が社会に追いやられているのは周りの環境のせいだと、実に他責的な思考に陥っているケースがある。彼らにとって最も重要なのは、その金銭や身体的な能力の欠陥ではなく、知識や経験の貧困だ。いろいろな場面を見たことで、自分はそう考えるようになった。

 こうした話と24時間テレビの存在は、切っても切れない糸でつながっているように思う。

 24時間テレビというものはまさに、❝「誰かを助ければその対象からちゃんと感謝され、支援者のおかげで真っ当な道に復帰するようになり、ゆくゆくはその支援者に『あなたのおかげで更生できましたありがとうございます』と伝えに帰ってくる」というような、どれだけその能力に欠陥があろうとも内心の美しさは誰もが平等に持ち供えているという物語を、初めから所与のものとして考え❞たい人のために作られた、『ポルノ作品』として機能してしまう。

 言い換えれば、『24時間テレビが弱者を救う』という近視眼的な構造の外側に、『他者に対して加害性を向けにくい弱者を特集することで我々が彼らに関わる心理的コストを減らし、かつ”弱者に対して手を差し伸べる私たち”という強者側の善性を担保することでテレビ視聴者を救う』という大枠の構造もが同時に併存しているということでもある。

 しかし、こうした内容のテレビ番組には批判が殺到するようになってしまった。それはひとえに、弱者性を打ち出すことで公平を期そうと取り組まれてきたことの数々が失敗に終わっている現実を反映しているということではないか。

 その弱者として振る舞ってきた者——言うまでもなく、女性と高齢者だろう。

 彼女たちを救うという企画は、残念ながらそのほとんどが失敗に終わってしまっている。女性を管理職にと打ち進められたキャンペーンの末には「私たちは昇進させられた(=責任者として女性が都合よく使われる)」などと抗議する女性が現れ、また、これまで社会に貢献してきた高齢者が安心して暮らせるようにと設計された年金や社会保険料は今の若者の家計状況を圧迫し続けている。選挙においても現場においても何かと肩身の狭い思いをしている若者に対し年配が説くのは「お前の力で這いあがれ」的な言説ばかりなので、若者は成すすべなくその個人主義をばっちりと内面化しているように見える。もちろん、女性や高齢者とその主語を大きくし全体を非難する気は毛頭ない。しかし、そうした弱者性により自らへの援助を担保してきたはずの彼女らが、その援助を当然そこにある所与のものとして受け取りすぎたがゆえに、男女間、あるいは世代間に現在進行形で歪みが発生している現状は否めない。 

 こうした現状を踏まえ、人々は学んでしまったのだろう。

 ❝「誰かを助ければその対象からちゃんと感謝され、支援者のおかげで真っ当な道に復帰するようになり、ゆくゆくはその支援者に『あなたのおかげで更生できましたありがとうございます』と伝えに帰ってくる」というような、どれだけその能力に欠陥があろうとも内心の美しさは誰もが平等に持ち供えているという物語❞は、実際ポルノでしかなかったと。

 これだけ助けてもらったのだから相手に感謝を、という態度に出るわけでもなく、ただその利権を維持するような言論ばかりに偏ってしまったことにより、そしてその弊害があらゆる各所で発生してきたことにより、24時間テレビ的な「助けたくなるような弱者を特集する」というスタイルはそれだけで十分ウケが悪いものになってしまったのではないだろうか。

 感動ポルノ、という表現を初めて聞いたのはずいぶん前だったが、これは実に言い得て妙だろう。

 ポルノという言葉は、もともと性的な表現を全般的に指すものだ。女性を性的な対象として卑猥に描き、それにより男性の欲望を満たす架空の作品ということになる。それらの作品内で描かれることは現実では実際に起こりえないものだという前提のうえで、妄想の範疇で欲望を昇華するために用意されたものだ。例えば、レイプされて嫌がるような素振りを見せながらも実は内心で女性が喜んでいるというような描写をすれば、それはほとんどの女性が嫌悪感を示すだろう。しかしそうであればいいという男性の欲望を、一時的に発散するものがポルノなのだろう。

 しかし感動ポルノは、長いことそれがポルノだということにすら気がつかれてこなかった。24時間テレビに映るような、前向きにスポーツなんかに挑戦することで過去を昇華しようとする、我々をひとつも不快にさせずむしろ拍手を送りたくなるような存在で障碍者という枠組みを語ることに、これまでの人々は大きな疑問を感じてこなかった。

 ただそれも長くは続かず、現代の『弱者性を打ち出すことで救われようとする』企画が各所で失敗に終わり続けたことで、これって実はポルノなんじゃ……?という視点を人々がしっかりと持つようになったのだろう。女性と高齢者の図式を障碍者に持ち出すことが賢明かと聞かれて頷くことはできない。しかし弱者を救おうというスローガンに人々がノっていけなくなってしまったのは、やはり一つの事実なのだろう。

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 たしかに、愛は地球を救う。

 しかしそれは、こういうことでもあるのだろう。

 愛される状況を維持しなければ、誰も救いたいとは思わなくなる。

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