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#22 "世界のウラ"「世界で最も穏やかな反乱」

 憂鬱なニュースである。

 ことし1月から6月の上半期に生まれた子どもの数は、外国人を含めた速報値で37万1000人余りと、去年の同じ時期と比べると3.6%減少したことが厚生労働省が公表した人口動態統計でわかりました。
 国が確認している2000年以降のデータでは最も少なく、少子化に歯止めがかからない厳しい現状が浮き彫りになる結果となりました。
厚生労働省が公表した人口動態統計の速報値によりますと、ことし1月から6月までの上半期に生まれた子どもの数は外国人を含めて37万1052人でした。
 去年の同じ時期と比べると率にして3.6%、1万3890人の減少となりました。
 2年連続で40万人を下回ったほか、国が確認している2000年以降のデータでは最も少なくなりました。
 また、結婚の数も7.3%減って24万6332組となりました。
 去年は1年間に生まれた日本人の子どもの数が77万747人と、国が1899年に統計を開始して以降で初めて80万人を下回りましたが、ことしも今のペースのまま推移すれば過去最少を更新するおそれがあります。

 今の日本人口を1億2000万として、平均寿命の80くらいで割ると約150万だ。ひとつの代にはそれくらいの人口がいないとおかしいはずなのだが、2023年に生まれた子ども数はそれよりも少ない数になる。いや少ないどころか、半分にも満たないかもしれない。

 この動きは天井を突き抜けるまで加速することだろう。正直、誰かの手で食い止められるような類のものではないからだ。

 自分の知り合いにも、どちらかに専業役割を頼むようなカップルはまるでいない。共働きで、子どもの数は1か2で悩んでいる……そんな夫婦がほとんどだ。無理もないだろう。3人以上生んでしまえば女性のキャリアには取り返しのつかない穴が空いてしまう。自分の育ってきた環境上、ひとりっ子で寂しい思いをさせるのは嫌だというカップルはいても、やはり職に重きを置いていれば3人以上の子どもを産むことは現実的ではなくなってしまう。そう考えれば共働き家庭の出生率は1.5前後となるだろうが、専業主婦が減っていること、また結婚の数自体が減っていることを考えれば、その全体の数字がどうなるかは言うまでもない。

 これを解決しようと思ったら、女性から仕事を取り上げる以上に方法はない。ただそれは無理な話だろう。男女関係なく平等な待遇を、と心がけてきた過去をすべて水に流す行為だ。ならばこの少子化の現実からはなるべく目をそらし、自由を享受しながら緩やかに自滅していく方法を取らねばならないというのは、仕方のないことでもあるだろう。

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 ——こうしたことを考えたとき、自分にはこう思えてならないのだ。

 この令和の少子高齢化は、歴史を振り返っても、最も穏やかで幸せな反乱なのではないか、と。

 かつての反乱は、上下で言えば下にあたる階級の者が束となり、上にいる者の首を取る——といったような形で行われていた。しかし令和の反乱はそうではない。誰かを殺すといった行動に踏み切るのではなく、むしろ誰ひとり殺さない(誰の不幸も生み出さない)というゼロリスク行為に踏み切った人間が束となり日本の破綻を促進しているという点で、歴史の教科書には乗っていないような反乱の形を実現しているように感じるのだ。

 男性であれば恋愛から降りたMGTOW的な生き方、女であればそのキャリア観を重視し結婚を取らないという生き方。それは決して、この世に不満があり意図的に誰かを困らせてやろうと計画したうえで編み出された生活ではないだろう。あくまで自分の生活の質を引き上げることを目的にした、近視眼的なライフスタイルと言ったほうが適切であるように思う。もちろんそれが少子化につながっているという原理自体はすぐに理解できるものだが、しかしそこには「悪」のイメージが付与されないという点が特徴的だろう。むしろ、結婚しないという生活を選ぶ自由を行使しただけだ。少なくとも今の日本では、結婚していないという理由で人を下に見てはいけないという価値観が主流である。

 過去の反乱は、下剋上をしかける側が「こうした方が世は良くなる」という信念のもとにそれを企み、また、世の中を変えるという覚悟を伴ってそれに踏み切っただろう。しかし今は違う。少子高齢化が社会をよくすると思っている人はほとんどいないだろうし、また、未婚者や子どものいない家庭が「いつ我々は糾弾されてもおかしくない」というひっ迫感と共に生活しているわけでもないだろう。むしろそれは自由という補助線を引けば、何の躊躇いもなく推奨されていい行為ということになる。

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 そして、この令和の反乱が過去のそれとは大きく異なる点がもう一つ存在するように思う。

 かつての反乱では、トップの首を取ったものが次の時代を治めることになるわけだが、令和の反乱はそうはならないということである。

 少子高齢化により財政状況が破綻し、新たな時代、新たな価値観が生まれるとして、その時代へと移り変わったとき、未婚者や子どものいない家庭は遺伝子を残せず、すでに淘汰されている。代わりにその時代に日本に残っているのは、この令和の時代に子どもを残す選択肢に踏み切った人間のほうであることは間違いないからだ。

 少子高齢化を促進した彼らは、遺伝子をこの世に残すことができない。次に大きく価値観が転換するのかはいつか分からないし、その頃に自分が生きているかどうかも怪しいが、少なくとも、今の未婚者の遺伝子が淘汰されていることは確実だろう。そのころ日本にいるのは結婚を選んだ者、あるいは、積極的に令和のうちに呼び入れた移民だろう。彼らが新しい世を支える以上、その頃に生き残っている未婚者も肩身が狭い思いをするのは目に見えているように思う。「でもあなた、子ども作らなかったのよね?」という多数の冷ややかな視線を前にすれば、そのDNA的な遺伝子はおろか、思想的な遺伝子(=ミーム)を残すことすらも困難だ。

 歴史上の有名な出来事として、本能寺の変がある。明智光秀が信長政権に幕を引くも、羽柴秀吉にすぐさま首を取られたわけだが、令和の反乱はこれに似ている。令和において少子高齢化を促進させる者は、現行の政権に幕を引いたあとの世界を見ることができない。仮に運よく生き残っていたとしても、その時代の人間は彼の言葉に少しも耳を傾けない。光秀は信長がかわいがっていた家来だったというのも実に皮肉だ。現代の未婚者だって「それでいいんですよ」「あなたは自由ですよ」と今の国家に十分すぎるほどかわいがってもらっているだろう。今の時代では、その"可愛がり"が国を滅ぼしてしまう。それに気がついていながら何一つ手が出せないというのが、今の政府の抱える大きな問題のひとつだと思うのである。

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 今の時代は個人戦である。

 結婚すべき、とも言えなければ、しないべき、とも言えない。すべて「お前が決めろ」という自己責任論に帰着するしかない今、遺伝子的な親になるのか、はたまたミームとしての親になるのか——その決断を多くの若者が強いられているのではないかと感じる。

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