#15 ”世界のウラ”「悪童を消費するうえで」
少し前のことになるが、こんなことがあった。
また、このニュースも記憶に新しい。
たった二件のニュースを持って判断するのは早計かもしれないが、しかし自分はこんなことを思った。
やはり本物のワルだからこそ、ワルの演技もうまいのではないか。
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また最近、こんなこともあった。
テニス界においてラケットを破壊するというのは珍しい光景ではない。世界的なトッププレーヤーのジョコビッチですらそうしているのをよく目にする。テニスというのは孤独な競技だとよく言われる。頼れるようなチームメイトはいない。その状況で数時間も戦うことになる。少なくとも我々の想像には及ばないところに彼らがいるのは間違いないだろう。
我々はトッププレーヤーの芸をいつでも見ることができ、つまりいつでも消費できる立場にいるからこそ、このことを覚えておくべきだと思う。彼らのプレースタイルにしろ私生活にしろ、どこかネジがぶっ飛んでいるからこそ、彼らには『ぶっ飛んだパフォーマンス』が可能になっている。そのどちらかだけを棄却することはできないのではないだろうか。
思い出せば枚挙に暇がない。覚せい剤に手を出すほど追い込まれて音楽の魅力に拍車がかかったアーティストがいるだろうし、イケメンタレントの女遊びスキャンダルも、女性に困らないくらいのルックスのおかげで日の目を見たという背景があるだろう。どこまでいっても、それは切っては切れない糸でつながっている。
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と、ここまで話したのが「消費者側のわきまえ」である。
しかし、それを消費者側だけに要求するのもまた違う話だろう。才があるなら何をしてもいいという風潮に繋がることで、才能に恵まれた者に大きく傾いた不均衡なパワーバランスが出来上がってしまうからだ。
さて、ここでもう一度西岡氏のツイートを振り返る。
正直なところ、なんでそうなっちゃうかな、と思いましたね。
正しくは、こうでしょう。
一応付記しておくと、この西岡氏の態度が問題視されたのは、檜山沙耶氏との交際が発覚した際の流れを踏んだものだ。つまり西岡氏の態度への炎上の源はテニスファンではなく、檜山氏がヲタクやアニメなどに理解がある風を装っていながら結局はテニスプレーヤーというゴリゴリのマッチョが好きだったという事実にむしゃくしゃした男性層により引き起こされたものだという背景がある。自分が西岡氏の立場でもいい思いはしないだろう。ファンならまだしも、それまで接点がなく、テニスのテの字も知らないような人たちがこぞってバッシングに向かってきたのだ。歯向かいたくなる気持ちは分かる。
しかしそれでも、である。
たとえそれがどのような形で批判されたものであろうとも、ある芸事に取り組むうえで見せなければならない『負の側面』を正当化するような発言を芸能者側から発してしまえば、観客の存在で成り立っている芸事のパワーバランスが一気に崩れてしまう。
これはあらゆる芸に共通するのではないかと思うのだが、その芸の寿命というものは、この観客心理とパフォーマンス側の絶妙な力関係をいかに長期間に渡り保てるかどうかにかかっている。芸能者のミスや失態をなにひとつ許さないと観客側が強気に出てしまえば芸能人の居場所がなくなるし、かといって、才能があれば何をしてもいいのだと芸能者が強行すると観客が離れて行ってしまう。そのどちらもが一線を越えないという条件のもとで存続できる——芸能とはそんな綱渡りのような世界なのではないだろうか。
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最近、アンジャッシュの渡部氏がメディアに復帰し、このような企画が上がっているのを見た。
言うまでもなく、渡部氏は不倫騒動により大きな非難を受けた。そこから数年間は一気にその姿を見なくなってしまったし、もう一生表に出てこないのではないかとも思った。しかし彼がこのようなかたちで復帰したことに、自分は少々涙腺に来てしまうものがあった。
これは本当に勝手な憶測なのだけれど、渡部氏はかねてよりその『好感度』を売りにする芸風を保っていた。どのメディアに出るにしてもその好感度にそぐわないことだけはしてならないと、常にその緊張感とともに仕事をしていたはずだ。だからこそ、そうした緊張感から逃れる場所も必要だったのだろうとは思う。彼の不倫が多目的トイレで札束を渡しての行為だったというのは少々グロいし、もうそれを知ってからは彼を応援できなくなったという人も大勢いるだろう。しかしそれは、好感度に反する態度を表舞台で一切彼に許さなかったということの裏返しでもあるのだろう。これまた予測でしかないが、もし彼が毒舌キャラで売るような芸人であれば、その不倫はひとりの愛人を丁寧にエスコートするような形になったというのも考えられる話である。その私生活くらいは、メディアに見せる仮面の役作りから解放されていたい——そう思ってしまうのが人間というものだ。
しかし渡部氏は長期間の謹慎を経てメディアに復帰してもなお、言い訳のようなことをひとつも口にはしなかった。言おうと思えばいくらでもあったはずだ。しかし彼は安直な保身に走ることなく、いじられ役を徹底し、他人の結婚式のスピーチに出て笑いを取るまでに復帰した。
その理由は他でもなく、彼にとって、そうするしか自身の芸へのパワーバランスを保つ手段がなかったからだろう。不貞腐れて消えるでもなく、自分を叩いたメディアの問題にすり替えるでもなく、自分のプライドをとるよりも、新しい形での復帰を目指した。それは簡単なことではないと思う。
「許していただきい」と真摯に向き合う者と「許してやろう」と真摯に向き合う者、この両者が共同で作り上げてきた世界。それこそが芸能界ではないだろうか。
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