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#20 ”コロナのウラ①”「私たちが一番苦手なこと」

 最近ちょっと体調を崩していて気分が非常にメランコリーなので、偉そうに社会を分析するような記事からはちょっと離れます。

 代わりに、コロナ渦を振り返ろうかなと。

 少し文章量を抑え、今日と明日、二日に分けてみます。今日のテーマは『死の敬虔さ』についてで、明日は『正義はいつもそこにある』というテーマで書こうと思っています。

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 コロナウイルスの騒動が始まったのは2020年の3月ごろだったと記憶しています。当時の自分は大学3年生で、4年生への進級を間近に控えており、その年の5月には所属していた部活動の引退試合を控えていました。当然、それはすべて無くなりました。3年生までに真面目に単位は取り終わっていたので、4年生の授業は週に1コマのゼミの出席のみ。下宿のベッドで寝転びながらZoomを開いて授業に参加し、それ以外に何ひとつ予定はありませんでした。

 ちょうどその頃は進路にも迷っており、自分は大学に再入学しようと考えていました。しかし合格を勝ち取ることはできませんでした。今でも忘れません。大阪大学医学部の学士編入試験に0.5点差で落ちたのを知ったときの「もう人生どうでもいいや」感。進路を決め、その年度の後半は友人とたくさんの旅行を——想像していたそんな大学生活は、跡形もなく消し飛んでいました。

 こうした経験のもと、やはり自分はどちらかというとあの過剰なコロナ対策を憎んでいるという立場にいます。基礎疾患のある高齢者が亡くなっているだけなのではという懐疑の視点はずっとあったはずです。しかし世間はそれに目を向けるより、半径数メートル以内の同調圧力を選び続けました。はたしてそれは、若者たちの青春3年を潰すほどの価値があったのか、そう問われれば間違いなく自分は首を横に振るでしょう。

 間違いなく、異常な期間でした。

 県をまたぐだけで殺人者呼ばわりされました。大学には勉強しに行ってるのだからZoomでも勉強できるだけ感謝しろという意見がありました。鴨川デルタで腰を下ろし酒を飲む若者に「家にいろ」と言う人間がいました。

 どれを思い返しても、やはり腹立たしいことばかりです。

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 大学の同級生とは、よくこんな話をしました。

 コロナで死ぬ老人より、餅をのどに詰まらせて死ぬ老人のほうが多いのに——と。しかし餅が販売停止になることはありません。せいぜい、気をつけて食べましょうという注意書きが出るくらいでしょう。ただコロナ禍はそうではありませんでした。マスクをしないだけで殺人者とみなされた。

 その理由が、今振り返るとなんとなく分かるのです。

 日本人がとりわけ苦手なのは、他の誰かが死ぬことそれ自体ではなく、新しい死因が増えた瞬間を目の当たりにすることなのではないでしょうか。

 結局、コロナが収束した理由もそういうことだと思うのです。私たちはただ、コロナでの死に慣れた。それ以上でも以下でもない。安楽死が日本で認められることはしばらくないと思いますが、そこにも似た通念があると思います。言ってみれば出る杭を打つ風潮が強いこの国だからこそ、多数が恐ろしいと感じるのであればそれになぞらうことが美徳となり、それはつまり、新しい形の死に慣れるための免疫が私たちの体には備わっていないということでもあるように感じるのです。

 例えば明日、火星人が日本にやってきて、高齢者を10人くらい連れ去るとします。火星人曰く「これから毎月10人ほどもらっていく」と。そうしたとき、我々はどうするか——きっと軍事費にいくらか投資し、宇宙船を撃退しようとすると思います。たとえ月に10人だとしても、恐ろしくてたまらないでしょう。火星人がいつ約束を破るか分かりません。図に乗らせれば日本が乗っ取られるかもしれない。そんな状況を前に「いや餅をのどに詰まらせて死ぬ老人のほうが多い」なんて言ったところで、その恐怖心が和らぐことは決してないでしょう。

 かつてにはない新しい形で、人が死ぬこと。

 自分はこう考えます。そこに含まれているのはそのひとつの「死」に対しての恐怖だけではないと。その「死」自体が他の死をも呼び寄せるのではないか——その危機感にこそ、人間の体は最も過敏に反応してしまうのではないでしょうか。

 五類が宣言されるまで三年ほどかかりました。これはコロナが収まったというわけでは決してないでしょう。あくまで、私たちが新しい死の形に慣れる(=そのひとつの死はひとつの死でしかなく、他の死を呼び寄せるほどのものではないと総意として納得する)のにだいたい3年くらいがかかる、それだけのことなのだと思います。

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 あのコロナ禍が異常だったと思う人たちは、学生や、はたまた飲食店関係者などが多いと思いますが、それも結局、自分が不幸を被ったからだというポジショントークでしかないようにも思います。そうした各人の立場から実る意見を一度捨てて考えてやっと「死の種類が増えることを怖いと感じる人間全体への想像力」が脳の余白に入りこんで来てくれるのではないでしょうか。そしてそう考えられるのは、決まって、感染が落ち着き後から振り返ったときです。渦中にいながら「やがて慣れる」とは、そりゃあ言いにくいものでしょう。

 このコロナ禍から学ぶ教訓は、次は早々に対策を打ち切ろうとか、そういう話ではないように思います。私たちはそのほとんどが、突然火星人が連れ去りを始めたら怖いんです。その人類としての恐怖感を前にすれば「家族が連れ去られることはなさそうだから」とか「高齢者だけで若者は大丈夫から」とか、そうしたポジショントークは実に無力だ——覚えておくべきはそこなのではないでしょうか。

 歴史は繰り返すと思います。

 ある種の死に慣れるのに、私たちはいつだって、3年ほどの時間を要します。

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