見出し画像

「グローバルマインド」を育てる方法

日本の大学の教育研究環境に関する危機感を強く感じさせる内田樹さんのエッセイを拝読し共感する部分があったので、私が考えたことも含めこちらでシェアします。


「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした。
批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。


「グローバル」や「グローバルマインド」の定義はなかなか難しいことがありますが、英語を勉強すればそのままグローバル人材になれるというのは最も短絡的な勘違いの例で、グローバルマインドを持つこととは、英語ができようとできまいと「自分とは異なる他人の存在を尊重できるかどうか」の1点に尽きます。

それが、ここでも説明される「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」の素地になります。

イチロー選手の引退会見での言葉について先日こちらに投稿しましたが、もし私が今「グローバルマインドとは何ですか?」と聞かれれば、野球の技術や英語の良し悪しではなく、あの時語られたイチロー選手の意識そのものだと答えます。

その意識を持てるようになるには、自分と異なる他人に対する配慮や想像力が必要です。そしてその想像力を働かせるには、どうしても経験が必要となります。なぜなら、人の想像は自ら経験の範囲からしか広がらないからです。なおここでいう想像とは現実的な想像のことを指すのであって、現実を度外視した想像(妄想?)とはまた異なるものです。

そういう意味での「経験の格差」というのは確実に世の中に存在していて、このエッセイで引用されている調査に従えば、日本の大学生は相対的に低い方に位置するのかもしれませんね。


私は日本の若者をブラジルで研修させるという、私自身が修了生でもあるブラジルで1年間のインターンシップを行なうプログラムの運営に関わっていることから、現役の日本人大学生と当地で接することがあります。

自分の大学生時代がどうだったかを棚に上げるつもりはなく、きっと自分も傍から見ればこんな感じだったのだろうとは思うので自分と彼らを比較するつもりはありません。

ただブラジルに長く住んでみた今になって気付くこととして、同年代のブラジル人の大学生らと彼らを比べると、聞きたいことを明確に質問する、相手の話を引用してそれについての感想を述べる、劣等感を感じていても腐らず堂々とする、感情を脇に置いて議論するといった部分に、どうしても力の差があると感じます。

一言で言えば、より幼く見えるとも。

言葉の問題はさておき、相手の話がすっと頭の中に入って来づらいようにも見えます。そういう準備ができていないかのようです。


もちろん、最初から準備ができている状態で来るべきだとまでは思いません。しかし、地球上で同じく20年近く生きている者同士で、どうしてこのような差が生まれるのだろう?という疑問はいつも付きまとっていました。

おそらくこれは、議論することに慣れていなかったり、だからこそ常に自分を起点にした発想をしてしまうことによるもの、平たく言えば、独りよがりなところが発露している状態なのかと考えます。

ブラジル社会に日本人の若者が放り込まれたとしましょう。たまに、こういう事が起こります:

自分が何者なのかをブラジル人に紹介するときに、どうしても自分が「日本人である」ことを強く意識します。それ自体は誰もが経験することです。

しかし日本人であることをあまりに意識しすぎると、何かと日本の「良いとされる点」をブラジル人に教えてやろう、という方向に向かってしまいます。

確かに、ブラジル人の中には日本人の良い面として、勤勉さや規律正しい点を挙げる人がいます。そこを知るや、例えば日本人お得意の「カイゼン」を持ち出してブラジル人の同僚に教えにかかるわけです。相手のお役に立ちたいと一生懸命考えるのは、それ自体素晴らしいことです。ただ日本文化の何かを教えることが「日本人らしさ」であることだと思いこんで、一生懸命それを演じようとしてしまう人もいます。

時間も限られたブラジル生活で、何か足跡を残したいと焦る気持ちは分かるのです。でもそれよりも、せっかく異国にいるのだから、自分や日本のことはともかく、相手や相手の国のことを深く知るという姿勢をとってみてはどうだろう?と考えるのです。それなら別に日本にそこまで興味がない人でも、優しく教えてくれると思います。それをたくさん吸収していってほしいな、と思うのです。


これは、このエッセイにおける次の指摘に合致します。

日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。

自分以外のものさしが世の中にはたくさんあるということに、早く気付く

画一であることを何かと求めたがる日本社会ではそれに気付きにくいだけに、社会規範の共通項を伝えていく教育の中身を変えていくのは相当にハードルの高いことですし、時間もかかります。

しかし幸いにも、手っ取り早くそれに気付くチャンスはあります。海外で生活してみることです。私の場合は、身近にあるブラジル社会がそれをよく教えてくれると考えているので、このプログラムの運営のお手伝いをしています。

しかし、いい経験の積める場を用意するというところに関しては、将来を担う若者を預かる大学にこそ、率先して動いてもらいたいと考えています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?