ドミノ倒し_1

(聖) 「神は頼りにならないし、あてにもならない」 知ってるよ、という人へ。 (聖書の学び 16)

まず最初に。「神に頼る」という言葉を聞いただけで、その人は聖書を学んでいないか、あるいは聖霊を伴わずに聖書の文字列を読書しているだけの人だとすぐにわかります。聖書を真摯に学ぶ者は、その言葉を選ぶことはありません。

さて、本題。

「聖書を学ぶ者が、神は頼りにならない、あてにならないとは、なんということを言うか!」と思う人が1割くらい。

「最初からそのつもりだよ」という人が9割くらいかな。

前にも書いたように、信仰心のない者にとっては、とにもかくにもメリットありきなのである。メリットがないと信じようとしないのである。
まぁ、わかるけどね。

今日は短めに、結論へ。

あなたが頼ったソレは神ではないからです。

頼りにならない別物に頼ったもんだから、何にも起こりません。あるいは期待外れとか。ソレを勘違いしたまま、自分の経験だけに頼って、神はあてにならない、と結論づけただけにすぎません。

あるいは、信じないものは存在しないから、存在しないものには頼ることもあてにすることもできないのは、当然ですね。

次。では、真の神になら頼れるのか?答えはNoです。

なんだ、結局神には頼れねーじゃねぇかよ!

その通りです。

「無駄だから神も聖書も信じない、無駄、俺は俺を信じる!」
分からなくもない。頑張ってください。
聖書はいつでもあなたをお待ちしております。

さて、

そもそも「頼る、あてにする」とはどういうことか。

見返りを求めることでしょうね。普通の人が、知り合いや親族を頼ることはあってもアメリカ大統領を頼ることはまずないでしょう。見返りが無理っぽいから。

で、神に頼るとは、見返りを要求するってことだね。もう気付いた人は鋭い。神に命ずることができる「人」はいません。だから頼れません。不可能です。お願いや頼みなど、言葉を変えても無理です。その理由は聖書に書かれています。

神は救ってくれるんじゃねーのかよ!

条件が一つあります。心から悔い改めて反省した者だけをお救いになります、お許しになります。救いの結果、望むものが手に入ることもあるでしょう。しかしながら、まずは最初に懺悔と祈りが必要です。この順番が変わることはありません。

神に頼る前に、まずは懺悔と祈りが必要です。その考えを理解していないからこそ、「神に頼る」という言葉が出てきます。真に学ぶ者は、まず「神に祈る、懺悔する」が先に出てきます。その後に救われることに対しては神の祝福に「感謝する」という言葉が出てきます。
神に頼ることなど最初から最後まであり得ないのです。

結論です。

神に頼る前にできることを知っている人は神に頼らず、神に頼ろうとする者は「神ではない何か」に頼っている。神ではない何かがその人を救うかどうかはわかりません。

神とは何かを知りたい人は、聖書をお読みください。自分で勝手に作り出した「我の思う・考える神」ではなく、正しい文献を参照して「神とは何か」を学んでいただきたいのです。「我の思う神」は日本中にあふれていますが、それのどれも神ではないはずです。

確かに言えることは、それは聖書に書かれています。新約聖書がオススメです。

あなた自身のほかに、きちんと信じられるものを持っておくことは、あなたを束縛するどころか、むしろあなたを自由にします。その一つとして、聖書の学びをオススメします。
無料の聖書アプリ(iOS用Android用)がオススメです。



(186回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊