自信を持つ

(聖) 学びと信仰心 (聖書の学び 29)

(約 5,000文字の記事です。)

知らないことは悪いことじゃない。学ばないことが悪いのだ。

学んでいれば常に「知らないこと」にぶつかる。学んでいればこそ「知らないこと」を発見できる。

*知らないこと=無知=悪、恥ずべきこと?

信仰心がない人は、知らないこと=無知=悪、恥ずべきこと、と捉えがちだ。それはその人の価値感だからいいのだけれど、私はそうは思わない。何かを学ぶ習慣のある人は必ず無知な自分が見つかる。それこそが学びの本質だからだ。

学びのタイミングは人それぞれだ。知らないことを笑う者は、よほど長い間「学ぶことを忘れてきた」に違いない。笑われてあげよう。笑わせてあげよう。別に何も被害はない。忘れよう。そして学ぶべき内容だけを覚えておこう。後は神様が良く対処して下さいます。
祈って忘れてGo!

学んで、新たな知識を得て、それを活用して、自分がやりたいことを実現させる。そして満足する。繰り返す。たくさん満足を得る。それだけだ。そこに他人が入ってくる余地などない。だから他人からどう思われようとか、関係ない。そんなどうでもいいことに振り回されていては自分のループが上手く回らない。

*批判に対する考え方

もちろん、たまに価値ある批判もあるだろう。問題は、常にその批判に対処し続けるべきかどうか、なのだ。無視する・無かったことにする=見なかったことにして忘れる、というのも立派な対応なのだ。なので、その批判の主が「あなたにとって信頼に足る人物」ならば、その意見について時間を取って検討する価値があると思う。

もしそうでないならば、匿名の誰かでよく知らない人からならば、それは無視する価値があるかも知れない。対処するかしないかは、自分で判断すればいい。その判断で迷ったときには、心の中の聖霊に聞いてみればいい。聖霊さんを通じて神様はなんて仰っていますか?それに従うべきですか?

自分の経験と知識に基づいて自身を持ってNoといえるならば、自分の判断でいいと思いますが、迷っているということは素直に心の声(聖霊)に従うのがいいでしょう。

*神様は何もしてくれません(笑)

神様は何もしてくれません。そして聖霊さんも何もしてくれません。

この世で行動を起こせるのは実体のあるあなたと他人だけです。

だが他人をどうこうすることはかなり難しい。他人を思い通りに動かすことはかなり難しい(やり方がないわけではないが、自由自在にはならない。デールカーネギー氏の著書「人を動かす」がおすすめです。)

で、確実に思い通りに動かせるのはあなた自身だけです。あなたの行動は100%あなたの自由です。

もちろん、できない理由を付けてそれを行わないのもあなたの自由です。言い訳して、それをやりたいのにやれない理由の正当性を声高に主張するのも自由です。ですが行動の結果の責任は100%常にあなたに降りかかります。その結果生じた不利益も自分に降りかかってきます。つまり、やるもやらないも自由だけれど、その結果、手に入れる幸・不幸もまた自分で受け取ることになります。

つまり、生きることの責任は常にMax 100%で自分の責任です。

*言い訳に価値が生まれる日は永遠に来ない

理由は簡単で、それ、他人からすればどうでもいいことだから。そして実は自分自身にとってもどうでもいいことだ。明日になれば忘れることでしょう。だから、一生懸命に「できないことの言い訳を力説する」ことは止めましょう。それ100%無駄だから。

*「できない」を「できる、できた」に変えることに意味がある。

そこに価値がある。それをやるためにエネルギーを使ったほうが楽しい。価値がある。そのとき辛くてもきっと価値ある物に変わる。

なぜ言い切れるか?

それこそが神様が人々にそうなって欲しいと、神様が望んでいらっしゃることからです。神様は常に人に幸せに生きて欲しいと願っていらっしゃいます。だからそれに従う行動は神様から祝福されており、よいことが起こります、多分(もちろん保証などできませんよ、だって私は神ではないから)。

*幸運とは神様からの祝福の具体的な形です。

そしてそれに素直に感謝できる心を持てることが信仰の一つの価値です。無信仰ならば「ラッキー」の一言で終了です。感謝する対象もない。ですから、感謝ということにどんどん鈍感になります。それがいいことか悪いことかは各自が判断すればいい。

*信仰心があることの価値=感謝の対象が「常に」あるということ

感謝と謙虚さ、これは傲慢、慢心への抑止力である。どんな宗教の教えでも、傲慢や慢心がよしとなることはないと思う。それは自分の悪い部分を増長させる原因となり得るし、どんどん悪い方向に成長してしまう。悪い方向とは、ずばり神様が望まないことだ。

では神様が望むこととは何か。これは聖書に書かれています。という逃げ(笑)何だよ、ずるいなぁ。聖書には「これこれこうするのがよい」と列記などしていません。百科事典ではないし「良い生き方の指南書」でもない。

ですが所々に「絶対NGだよ!」ということは明記されているので、それはやってはいけないこととしてやるべきではない。また、やっていいこと・やるべきことについては「ぼんやり曖昧にその指針が示されている」のもまた確か。あとは学びの深さに応じて解釈が変わります。なので聖書を通じて聖霊を育て、聖書からの正しいメッセージを受け取って自分の「善く生きる指針」に追記していけば、自然と神の望む生き方、つまり幸せの多い良き人生となると思っています。なぜならばそれこそが神が私(人)に望んでいらっしゃることだからです。

神様はきっと「あなたは良き人生を送った後に最後に私の元に来なさい」と仰っていることでしょう、多分(笑)

*運命論は「諦めではなく希望」をつかみ取るため

もちろん私は神様ではないので神様が望むことはずばり100%常に分かるはずもなく。ですが、行動に迷ったとき、どちらが神様が望む方向だろうか?と考えると、自信を持って正しい選択ができるようになります。そして、これは私の経験でしかありませんが、神の望む方向に従うと、不思議と自信に溢れ、結果もこれまたたくさんの偶然に助けられて万々歳、という結果になることが多かった気がします。

また、もし失敗に終わっても、色んな学びがあってそこから得た知識を次に生かせばいい、あるいは失敗から学んだことが今後に必要なことだからこそそうなった(神様がそうして下さった)に違いないから、腐らずに次に進もう!と思えるので、何も悪いことなどないのだ、そう思えるようになりました。その場合には気持ちの切り替えがとても重要、ということになります。あとは神に祈って自分の心を洗い流しましょう。

それ、かなり都合のいい解釈じゃね?と思うことでしょう。ですが、その結果、自分の心がスッキリとして、明るい気持ちで次に進めるのならば、それ、そんなに悪いことですか?あなたに迷惑かけましたか?ぐじぐじと腐った気持ちのままでいる同僚と仕事し続けたいですか?本人の気持ちの切り替え方を本人が体得しただけじゃないですか?それをどう体得したかを批判する意味はないと思うのですが。

*祈りの効果

「この先の運命は神様よろしく。あとは私は忘れるわ!」「その代わり、やるべき事に全力を尽くすから、良きに計らってくれ、神様。」

結局の所、悩んだり考えたりすること&行動した結果と、その結果がどう転ぶかは、誰にも分からない。無信仰ならそれでおしまい。それギャンブルと何が違う?だが結局はどうなるかは謎なので、何ともならない。

だが信仰心があって、祈れば、あとはスッキリ忘れていいのだ。それよりも自身がやるべき事に全力を尽くして行動できているかどうかだけが問題だ。そう考えられるのも、この先のことは神様が全て良きに計らって私の人生を設計して下さっているのだから、きっちりお任せするとして、自分自身は考えうる最善を尽くすだけ、それだけだ。それならば自分の行動なのでどうにでもできる。あとはやって結果を待つしか無い。それだけだ。

不安は全て神様にお預け。自分はやれることに全力を尽くすだけだ。それだけ。祈ってスッキリし、どうしようもない将来のことは忘れてしまおう。

今にフォーカスするために。


*神様は存在するかどうかはわからないが、神頼みは存在しない(断言)

神頼みなど存在しない(キッパリ)。神様は何もしてくれないのだから。祈るだけなら誰でもできる。だが祈っただけでは何も変わらない。腹が減ったならば飯を食う以外に空腹を解消することはできない。それを根性論とか謎の理論でねじ曲げようとするから、宗教は勘違いされやすい(笑)

神頼みしても神様は何もしてくれないので、結果が欲しければ自分で行動するしかない。

じゃあ神様って存在意義がないのでは?いてもいなくても一緒じゃん?宗教とか信仰って、無駄じゃん?

そう思う人にとっては神様は存在しません。別に無理に「実在するよ、存在するよ!」と主張するつもりはありません。それ、私にとっては無駄ですから。別に学問ではないので、存在の証明など誰得ですか?

幸せも、友情も、平和も、信じる人にだけ存在し、信じない人にとっては存在しません。それを「概念」と言います。概念は信じるかどうか、それだけです。「そう思わない」の一言で存在したりしなかったりします。それは各自の自由です。

*自信はどこから来る?どこにある?

では自信って概念は?

行動に自信を持つためには、神様を信じて祈りを捧げ、不要な迷いを自分の心から追い出す必要がある。今やろうとしている行動は正しいことかどうか?正しいと思えれば不思議と自信が湧いてくる。そこに聖書からの学びがあって、それが神様にとって望むことだと思えれば、自分の選択に自信が持てる。その自信こそが神様からの一つの祝福の形なのだ、と思えたとき、私は自分以外に信じられるものを持つことができて良かったな、と思えたのでした。

で、その結果、神様からの祝福と共にどんどん良い人生になっていく、というのが私の基本的な考え方です。その代わり、常に聖書からの学びも絶やしてはいけない。その軸に「聖書の教え、聖書からの学び」があるだけです。

なので他人が別の宗教や考え方をその人自身の軸に据えていても何ら問題はありません。迫害する必要もないし、否定する必要もない。逆に迫害を受けたり否定されても気にしない、する必要がない。忘れよう。私の真ん中はそんなことではぶれない。

正確に言うと、ブレる要素は処理する。それだけだ。ぶれないとぶらさないを両立させる。だって、傷つきにくい素材の物だからと言って屋外に放置する必要もないでしょ?大切な物は屋内管理した方がいいに決まっている。持ち運べるものならば、ね。無駄に耐久力テストする必要はない。

*何でも学びは尊い。そして聖書の学びは心の真ん中に置く価値がある

宗教からの学びは、その人の真ん中に据えられて、その人自身が幸せに生きられるようになった時にだけ、価値ある存在になると思っています。なので、自分の真ん中にその教えが生きていれば、他人とか他宗教とか割とどうでもいいと思っています。

まぁ、イエス様ですら「人から罵りと罵倒を受けた」のですから、凡人たる私がこれまた凡人たる他人からあ~だこ~だ言われるのは必然です。聖書にも書かれています。

なので、悲劇のヒーロー、ヒロインぶることは良くないことですね、聖書からの学びに照らすと。そんなことよりも祈ってスッキリしてから、現状打破を考えて行動した方がいいよね。

他人発信の何かによって自分をぶらすのは無駄ですし、ぶれることを神様は望んでいらっしゃいません。自分がやりたいことを聖霊の声に従ってきっちりやれば、最終的に良い人生だなぁ、と思って生きられる(生きられた)ならば、それがベストだと思っています。その他は些末なこと。


*結論 学んでぶれない自分を作る

何を学んでも構いません。もちろん聖書はオススメですがそこからは各自判断です。聖書はいつまでもあなたをお待ちしております。

無料の聖書アプリ(iOS用Android用

何だか長文になったので今日はこれまで。


今回の創作活動は約1時間15分(累積 約1,393時間)
(410回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊