祈り

(聖) 絶望の淵にあって人が頼れるモノは何なのか? (聖書の学び 20)

(約 1,000文字の記事です。)

今回は具体性のない日記的な記事ですが、ここ最近で聖書からの学びを実践して、自分が変わると共に周りにも良い影響が出てきたことを感じたので少しだけ日記的に記しておきます。

*やっぱり無信仰はいいことないよ

まずはこれです。人は思った以上に弱い。特に想定外のピンチに陥ると簡単に狼狽(ろうばい)し、あり得ない行動を取る。わからなくもない。私も無信仰であったならばすぐにパニックになっていたと思う。

*信仰心の一つのメリット

では信仰心を持つとどうなるか。面白いことに、これがピタリと収まる。日々の学びの中、祈りの中で、もしこうなったら?なんてことは常に頭をよぎる。そういうメンタルトレーニングが心を強化し、いざというときでも冷静でいられる。これは、自分が心から信ずるに値する部分がぶれないので、そこから導かれる結論も又、ぶれない。もしそれが自分の生命に関わることであったとしても、ぶれない。

*何にこだわる?

なぜか、生き抜くことにこだわらなくなるから。良く(善く)生きることにこだわるから。そもそも生死は人が決められない。聖書の学びではそれは既に神様が決めて下さっている。シナリオはとっくの昔に完成しているわけだ。抗うこともできないし替えることもできない。

無信仰の私はこの考え方がとても嫌だった。自分の運命が既に誰かに決められていてそれに従って生きることしかできないなんて、窮屈すぎる、息が詰まるよ、ってね。

*筋書きに従う生き方

でも、今は違う。全ては主がお決めになったこと。筋書き通り。だから、どんな辛いことや困難も、筋書き通り。であれば自分はそれを如何に乗り越えるべきかを考えるだけなんだ、ってね。これの効果は、不可避な現実から逃げないで受け入れて乗り越える術を考えるという「ポジティブ思考」に繋がることなんだ。なぜこうなった?どうしたら回避できたか?という後ろ向きな考えが入り込む余地がない。

全てが神のお導き。こうやって受け入れることで、次にどうすべきか、を考えることだけにフォーカスできる。事実、過去の何が直接的な原因かなんてわからないし、分かったとしても変えられない。タイムマシーンはない。

だったら最初から、受け入れて乗り越えることを考えることが得策だ。聖書ではそれの重要さを最初から教えている。気付かなかっただけだ。

*聖書を読む姿勢

だから聖書は、学ぼうとして読めば分かるが、読書のつもりで読んでいてはただの長い小説だ。学ぼうとする姿勢が重要。これは間違いない。

とりとめが無くなりそうなのでこの辺で。

今回の創作活動は約15分(累積 約887時間)
(316回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊