聖書

(聖) 偶然やラッキーはどこから来る?感謝できるってのは幸せよ (聖書の学び 23)

(約 3,300文字の記事です。)

偶然やラッキーはどこから来る?無信仰ならば、ラッキー、偶然だ。ソレでおしまいだ。だが聖書を学ぶようになってから神に感謝する機会が増えた。爆増である(笑)

だから人に感謝することも自然にできるようになった。感謝するのが当たり前すぎて、感謝の言葉を口にすることについていちいち考える必要もない。ありがとうが常に口から出る。これだけでも信仰の価値があると思う。

*ラッキーは神様からの祝福

自分自身にとってのラッキーは、どこから来るのか?何がきっかけでどういう理屈でそうなったのか?完全に分かる人はいない。あり得ない。そして無信仰ならば「ラッキー♪」で終わる。

だが、聖書を学ぶようになってからは、そこで立ち止まり、神に祈りを捧げることができるようになった。謙虚になった。神様からの祝福がラッキーそのものなのだ。神様の祝福がこの世に具現化して自分に働きかけてくれた。嬉しい。ありがたい。ラッキー♪だから神に感謝する。

*人に感謝、神に感謝。

順番は自由。だが、必ずいずれか一つ入ってくる。結局、世の中には感謝できることが沢山あることに気が付いた。ありがたいことだらけである。

それをもたらしてくれたきっかけが「人」であるならば、その人にも神と同じくらい感謝する。ただそれだけなのだ。だから、感謝するという意味では神への感謝も人への感謝も、差は無い。同じレベルでありがたいと思うこと、これが本当の感謝の祈りなんだと、今なら分かる。差を付ける必要はない。だからこそ、感謝には心からの感謝しかない。

*私にとってうわべの感謝などあり得ない。存在しない。

今の私はそうだ。そしてそんな演技の必要性も全く感じない。感謝は1つ。神への感謝、人への感謝、差は無い。イコールだ。ありがたいという本当の気持ちは1つしかないのだから。

*神は何もしてくれない。だからこそ、何かしてくれた「人」には同じレベルで感謝する

神様は、何もしてくれない。そりゃそうだ、現世にいない存在なので現世に直接的に影響を与えられるはずがない。だから、信仰すれば何かが変わる、何かをしてもらえると思っている人には理解されないと思う。そりゃそうだ。そんなに簡単に事態が変わるかよ、って話よ。信仰を持つということで即座に変わるのは「ご自身の心のあり方、考え方、姿勢、反応」であって、現状が即座に変わるわけじゃない。預金残高が増えたり、人間関係が即座に改善するなどあり得ない。そこは勘違いしちゃいけない。神は何もしてくれない。ここは間違いないよ。現状を改善するための行動ができるのはこの世であなたただ一人だからです。神は見守りますが何もしてくれません。じゃあ信仰の意味あるの?と思うならばご自由にどうぞ。心の中の良心(聖霊さん)に聞けば答えが出ると思います。

*怒りの行動の結果は「後悔しか生まない」と分かれば「怒ることの虚しさ」が分かる

人だもの、不完全な存在として神に作られたんだもの、だから怒ることもあるよ(笑)そりゃそうだ、人の感情は揺らぐ。私もあなたも。だからこそ反省と日々の振り返りと、神への祈りが必要だ。反省すべき点はいつもある。無くなることはない。でも、そういう日々を繰り返していると、謙虚さが生まれる。傲慢さがなくなる。自分が常に正しいとは限らない。全知全能ではなく不完全な存在だから、理詰めでの議論以外では間違うことが多い。

情報を全て手に入れられる人以外は、どうしても憶測が入るので、やはり人は間違う。信念はあっても、絶対ではない。だからこそ、相手の意見に耳を傾けるほうがいいってのがよく分かるようになる。そうなれば傲慢さは消え去る。

「相手の言っていることが正しいかも知れない」っていう感覚が、神の祝福の領域内にあなた自身を置いている状態なのだ。それこそが「善き考え方」なのだ。

2019/08/12追記
一方で旧約聖書では、もうちょっと厳しい意見もあって、愚か者の言葉には耳を傾けるな、巻き込まれないようにしなさい、という主旨のアドバイスもある。この判断をどうするべきかは心の中の聖霊さんの力が必要だ。だから聖霊を育てるために聖書を読まなければならない。知識や格言を体に取り込まなければならない。
新約聖書はだいぶまろやかで「いい人」成分が多めな気がする。だがそれだけだとお人好しのリスクもある。だから聖書は新約聖書を一通り理解したら旧約聖書の分かりそうな所からでも手を付けた方がいい。厳格だけれどスパッと分かりやすいルールが結構載っているから、身が引き締まる。

*怒って行動した内容は「引っ込みが付かなくなる」から自分も相手も傷つける

だめなんだよ、怒りの行動は「一方的に自分の衝動的な感情を相手に押しつけること」なんだから、後から冷静に振り返ると、無かったことにしたいことだらけなんだ。後悔だけが残る。後味が悪い。

だったら最初から「怒らなければいいんじゃない?」ってのが結論だ。

ソレができれば苦労しない?その通りです。

そこで信仰心の登場です。無信仰ならこの沸き上がる負の感情を抑える術がない。強いて言えば自己啓発本の1フレーズくらいか?頼りない、心許ない。そうなるとそんな弱い根拠に基づいているので刹那的な対処でしかなくなる。そうなると自分自身にすら自信が持てなくなる。惑う。

……うん、よく分かる。

だが、信仰心を持つと、それをすべきではない根拠を得られる。聖書に書いていたNG事項だと思えば、はっきり言えるし、引き下がらない。引き下がれない。それが自身のルールであり、根拠でも有り、譲れない理由なのだ。それが衝動的な誘惑だとしても自制できる。だって聖書で「やってはならない」と書いてあることなので、絶対にやってはいけないことなのだ、今の私にとってはね。そこで立ち止まれる。

一方で無信仰ならば暴走特急列車だろう。それはわかるし否定しない。だが肯定もできない。現世で責任を取るのはあなた自身なのだ。神は何もしてくれない。で、そこで必要なのは自制の次に互いの対話であり、それができる場を設けることが最初のミッションと言うことになる。

*自己制御の根拠は自分以外になければ暴走ロボットになってしまう

これが信仰心を持つことのメリットの一つかも知れない。自己制御ができないと、自分がキレタときに制御不能になる・暴走する。だが後日振り返ると反省と後悔しか残らなかったりするからタチが悪い。それを認めたくないからに意固地になる。引き下がれなくなる。結果、事態が悪化する。

ところが信仰心があると、謙虚になれる。冷静になれる。相手の言い分が正しいかも知れないと思いながら対話できる。怒らなくて済む。正しい判断を選択しやすくなる。それって幸せでしょ?

*信仰心のある人のほうが常に安定していられる理由はそういうことだ

別に聖書から学べとは言わない。色んな宗教があるから、その経典の中から心から信じられるものを1つ選んで心の真ん中に据えればいい。そうすれば怒らずに済む。世界を冷静に見られる。心が穏やかになる。

信仰心を持つことは心の平和に繋がる。これは間違いない。かつて無信仰であった身から聖書を学ぶ者になった今、とても強く感じるし、メッセージとして伝えたい。

*自分以外に信じられるものを持っている人は、強い。

これは間違いない。もう説明しきれない。

*あなた自身以上に信じられるものを持て。

それが心の安定に繋がる。ただし本当に信じられるモノであることを色々と調べて確かめてから、信じるべし。フェイクを信じても結果は悲惨なだけだ。

本物を見極める目を育てて下さい。そして自身の血肉にすること。そうすれば善い時間を過ごせます。

聖書はいつでもあなたをお待ちしております。勧誘しません。ず~とそこにたたずんでいらっしゃいます。新約聖書からがオススメです。


今回の創作活動は約30分(累積 約911時間)
(323回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊