noteの違和感の答え
最近、noteの使い方に違和感を覚え始めていたが、今、自分なりの答えを見つけた気がするのでメモ。
noteには詳細なアクセス解析機能がない。アクセス数の集計しかない。だから、キーワード別の集計ができるグーグル解析を付けたBlogと比べて、ニーズを把握できない。
そのため、ニーズに応じた記事を充実させよう、と言った戦略が取れない。noteは、Twitterなどのように一方的に発信するだけで終わってしまう。そもそもnote自体が、そういう「自分のための発信の場」として設けられているか、あるいはそういう使い方でいいのだ、と言う人にはぴったりなのだろう。
そのためであろうか、noteは知識の集積場としての役割よりも、流れては消えていく刹那の情報(感情や思い)を記すのが向いているのだろう。エッセイなんかもよさそうだ。誰かのために書くと言うよりは自分のために書く場所に向いているのがnoteなのだろう。
一方で、自分のためだけの発表の場に意味があるのか?と考える自分がいる。Evernoteにメモでいいじゃないか、と感じたのが発端。発表する意味がない情報。しかしながら、発表する以上、何らかのレスポンスを期待してしまうのも人情。でも、素人のメモ書きにそうそうレスポンスがあるはずもなく、無意味に消沈してしまう。たまにくるイイネが嬉しいけれど、それもまた刹那の喜び。
自分の中のアクティビティにおいて、noteを付ける時間の価値が無に近づいていくのを感じた。自分の中の価値観と行動とを今一度整理してみたくなった。
刹那の蓄積ではなく、着実な情報の蓄積・価値ある情報の発信源を求め始めた今、どうやらnoteは合わない気がしている。Blogの方が合っている気がする。カテゴリ別ソートやブログ内検索ができるし、グーグルアクセス解析もできる。一つのジャンル(今は3DCG)に特化した情報発信ならば、数年は意味のある情報としてグーグル検索者の役に立てるかもしれない。
例)はてなBlogにあるがnoteにないもの
ブログ内検索、グーグルアクセス解析設置
箇条書き機能、目次作成機能、目を惹く文字装飾、アマゾンリンク挿入機能(本の紹介など)、Evernoteからの投稿機能、html文の直接操作
noteを自分のための思考整理に使おうとしても、箇条書きや目次(見出し)を使えないのはやっぱり不便だと思った。本当に書き殴るだけならただのストレス発散の場でしかない。そんなの誰にとって価値ある文章なのか?
そして、情報を発信する以上は「誰に向けた情報発信なのか」をきちんと意識する必要がある。そうなってくると、どうしても箇条書きや赤文字などを使った分かりやすい表現が欲しくなる。
一方noteはそういったことができないので必然的に流し書きのようなスタイルとなり、分かりやすい文字列の構成に限界がある。官公庁の文章のように最後まで読まないとよく分からない。パワポ的な視覚で直感的に分かる文章の配置・構成ができない。だらだら書くには気持ちいいが、思考の整理にはつながりにくい。
はてなブログでとりとめのない文章を書いていたとき、ある程度書いてから見出しを付けて目次を付けてプレビューすると、全体構成の流れのぎくしゃくしたところが明らかとなり、主張内容を1つに絞りやすかった。派生した主張内容は別の記事にすればいい、と。また、小見出しも付けると更に内容が整理された形となり、自分で見てもすっきりするのが気持ちよかった。また、忙しい人は目次から結論をクリックして一気にジャンプすればいい、という利便性の提供も心地よかった。
結局、書いた情報に価値があるかないかは他人が決めることなのでどうでもいいのかもしれないが、どうでもいいなら自分にとっての思考を整理できるはてなブログのほうが執筆体験としては上質だと感じた。
というわけで、しばらくはnoteは塩漬け状態になるかもしれない(笑)
---- 8月13日(月)追記 ----
同じ内容をはてなブログで書いたらこうなった。
noteとはてなブログとの比較(noteの違和感の答え)
はてなブログは、箇条書き、ワンクリックでできる目次作成、文字の強調、画像の挿入のしやすさ(特に過去の画像の使い回し時)など、執筆体験が楽しい。今、上記リンクの挿入のしやすさ・リンク修正のしやすさ一つ取っても、はてなブログのほうが楽しいと感じた。
やはりnoteは情報や知識を扱う媒体としては「シンプルすぎる」のである。長文版Twitterを誰がいちいち時間をかけて読むのかと考えてしまった。
---- 8月15日(水)追記 ----
noteの魅力を再発見したので、気が向いたときに駄文を放とうと思う(笑)
読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊