赤信号_1

聖書の記事をちょっと控えようと思う

今回は雑記。最近の聖書の記事が、だんだん学びの紹介から押しつけがましくなってきていることに気が付いた(笑)聖書を学ぶ者にとっては正しい表現だろうが、多くの人(無信仰状態)にとっては、だんだん分かりにくくなっている気がしたのだ。

なので、しばらくは独習を進めるとして、聖書の学びの更新頻度は、最低でも1日は空けるようにしたい。

本当は、聖霊とは何か、について書きたいところである。この理解がないと、聖書が読書か学びかの大きな差になってしまうのだが、普通の人にとって、ファンタジー小説や映画でもない限り、「は?聖霊?頭大丈夫?」ってなるくらい、日本人には縁遠いものだ。

だが、無信仰状態の私ですら、福音書を読み終えた時点で、聖霊についての理解を授かることができたので、私が語るべきではないのかも知れない。

とりあえずは、ここまでで、


・神とは何か、頼れる存在か
・死者の復活とはどういうことか
・自分以外の何かをきちんと信じることのメリット
・無信仰者が目指す聖人君子への罠
・信じるからこそ存在できるものがある
・聖霊は心の中で育てるもの
・聖書は聖霊とともに理解すると学べるが、それ以外なら単なる読書

という、キリスト教に対する謎のいくつかを、無信仰であったころの考えを交えながら説明できたので、よかったと思う。聖書の教えは、極めて「まとも」であり、怪しい信仰ではないことをきちんと説明できたので、満足である。

今までのnoteのなかで、初めて「キリスト教」という単語を使ったはずだ。これまで意識的に避けてきた。これからもそのつもりだ。宗教への不信感が多いなかで、やたらめったら宗教名を出すのは、避けられる一因になると思ったからだ。これからも「聖書の学び」でいきたい。実際、やっていることは「聖書から学んでいる」のであって、宗教名は意識したことがない。
宗教名は、後から「人」が付けたものであり、信仰の対象ではない。信仰の対象は「聖書の教え、神からの教え」なのだ。これが私にとってとても重要。

というわけで、聖書の記事はしばらくお休みします。聖書ネタの連日投稿は意識的にストップするようにします。

(187回目のnote更新)

読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊