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動画の価値感の変化「ちゃんとしていなくていい」。むしろ個性が大事

(約 1,600文字の記事です。)

最近、YouTubeなどの動画を見ていて気付いたこと。それは、ナレーションが「ちゃんとしていなくていい」ということ。

ナレーションの価値の変化

一昔前の価値感では、ナレーションといえば「プロが吹き込むもの、ちゃんとしていなければならないもの」だった。

だがYouTubeが当たり前の今、「ちゃんとした、プロが吹き込んだ動画」って、見たことある?民放の切り抜き動画以外で見たことないよ?

(違法性については割愛w)

むしろ、投稿者の肉声だったり、あるいはゆっくり動画やボイスロイドの解説のほうが「圧倒的に多い」。ここに時代の流れを感じる。

声の演技力の価値とは?

そういう意味では、声優という職業はもう「終わる」のかも知れない。よほど他の何かで個性に「金銭的価値」を生み出せない限り、ちょっと演技が上手いとかそれくらいでは他者との差別化が難しいだろう、と感じた。

少なくとも、昨今のボイスロイドの進化は目覚ましい。音楽業界の人に話を聞いてみても「仮歌ならば肉声である必要がない、ボイスロイドで十分」という意見がかなり多いのだ。人件費ゼロで何度でもリテイク可能。オマケに不満もコストも発生しない(笑)そこまで来ている時代だったりする。

上手さじゃない。個性の時代

そう感じる。誰もがイケボじゃない。見た目も美しいとはかぎらない。だが個性は生まれ持ったものだ。それを売りにするかどうかは各自の判断だ。必ずしも表に出す必要はない。だが、隠す必要もないならば、それはクリエーターの一つの武器であって、しかもコスト0の無限の可能性を持っている有用な資源な分けで。

もちろん画像ならばイラストだったりアバター+モーションキャプチャーでもいい。ビジュアル化せずに黒子に徹するのもいい。肉声を出しても良いし、ボイスロイドやゆっくり音声でもいいだろう。

だが最終的には「表現したい物」が視聴者に届くかどうか。これが重要だ。他の表現は些末に過ぎない。

一方で厳しい言い方をすると、ボイスロイドやゆっくり音声、使い古された立ち絵やまんじゅう頭絵は、個性を出せない。金太郎飴だ。差が出ない。そういう弱点もある。

拡張して考えると、二次創作がどこまでも不自由な理由がここにある。


動画コンテンツの淘汰の時代

結局はこれだ。表面的な派手な演出で引っ張り続けることは難しいだろう。コンテンツのコアな部分に「長期的に視聴者を惹き付け続ける魅力があるか否か」が問われる時代になったと感じる。そしてコンテンツの価値が、広告主から見た出稿先の価値=クリエーターにとっての収益化、という構図はほぼ間違いないだろう。

そして資金源であるYouTubeの広告出稿主が出せる金額はさほど変化しないと思っている。結果、増え続けるクリエーターにとってはパイの奪い合い状態が過密する一方なのだ。撤退するにわかクリエーターが多い方が、古参クリエーターの取り分が増える「可能性が高まる」点でも、初心者に「より厳しい」状況がますます加速するだろう。それが緩む気配はなさそうだ。


動画コンテンツとマネタイズについては、色々と転換期が来ていると感じる。


長くなったので今回はこの辺で。


今回の創作活動は約1時間15分(累積 約2,404時間)
(634回目のnote更新)


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読んでくれてありがとう。気長にマイペースに書いてます。この出会いに感謝😊