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2020/04/04「個性はパズル」

今朝は一度、妻が出勤する前に目が覚めた。6時半ごろだったかな。見送りだけして二度寝、起床は10時。よく眠る、ただそれだけでみなぎるパワー。

もうすぐ甥っ子3人のうち末っ子が高校生になる。ふと自分の高校時代を思い返してみると、それは「個性獲得」への戦いだった。公立小中学校のように、地域コミュニティと密接に繋がっているわけではないので「自分が何者か」をはっきりと表現しないといけない気がしていたのだ。

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(右から2番めが僕。他の人たちの顔を隠したほうが良いかと思ったけど、みんないいヤツなので大丈夫だろう)

手で大事そうに抱えているのはフイルム一眼レフカメラで、Tシャツはなぜかカフェラテの販促用Tシャツ。背負っているのはMILLETの真っ赤なリュックサックだ。過激ではないものの「どうでもいい服を着ています」感はない、絶妙なラインを攻めたと今でも思っている。

一応書いておくと、この写真が撮られた2002年当時、デジタル一眼レフカメラはまだ存在しておらず、フイルムを使っていたのは別に「個性」を意識したからではない。

しかし今になって思う。「個性」とは「自分の所属しているコミュニティで認知されているパーツの組み合わせ」でしかない。

上の写真のあと、僕は日本大学芸術学部(以下、日芸)に進学したのだが、そこにある「個性」はカオスだった。着物を普段遣いしている女性は珍しくなく、眉毛を剃ってスカートを履いている男の先輩、黒マントをまとった人、パンの耳袋を常時肩から下げている人。

でも、その人たちはいつまでもその格好ではいられない。少なくとも、相当の覚悟が必要だ。なぜなら、それは自分自身がコミュニティの中心になるか、コミュニティから外れるかの二択を求められるからだ。日芸コミュニティの中でだけ認知されたパーツの組み合わせで作り上げた個性は、外のコミュニティでは受け入れてもらえない。

海外在住の日本人が皆似たように見えるのも、様々な職種の勤め人がごそっっと「サラリーマン」に括られてしまうのも、見た目でその人の好みが何となく分かってしまうのも、それぞれが「自分のコミュニティで集められるパーツの中から、自分を表現」しようとしているからだ。

海外に住む日本人は、その現地で集められる「極東アジア人」のパーツを組み合わせるしかないし、サラリーマンは自身の会社や業界で許容されるパーツしか使えない。

実際には、それぞれのコミュニティにおけるアイデンティティ理解の解像度、コミュニティのサイズなんかが影響してくると思うけど、大雑把に言ってだいたいそんなところだと思う。

つまり、個性なんて悩むほどのものでもないのだ。外から見える部分はパーツを組み合わせるしか無いのだから。がんばれよ、高校生。


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