見出し画像

書き始めるのは書き上げてから

よく文章は「書き上げてからの推敲が大切」とか「2倍ぐらい書いてから削っていく」とか言われる。実際、数倍の初稿から削っていくことも、見直してたら全面改稿になることも多い。ずっと無駄の多いことだ、こんな書き方でないといけないのかと思ってたけど、最近「いまの僕には」まだそれが必要なのだ、と腑に落ちた。

以前は、そうする必要があるのは、表現や伝達の技術がまだ未熟だからだろうと思ってた。

例えば、画面上でひとまず文章を書き上げる。それをプリントアウトして、赤ペンを握る。読み直してみる。画面から紙に移すことで「書き手脳」から「読み手脳」に切替えて向かい合うと、誤字脱字とかいうレベルではなく、「この言い回しはわかりにくい」みたいなところが見えてくる。

さらに声に出して読んでみる。平面上にあって視点をあちらこちらに飛ばせる「二次元」から読み上げられた順に受け止めるしかない「一次元」の文章になる。話のつながりが悪いところ、唐突に切り替わっているところ、ボリュームバランスの悪いところ、説明もなしにいきなり結論めいたことを言い切っているところなどが見えて(聞こえて?)くる。

そうやって、未熟な表現力や伝達力で書かれた文章を、より伝わりやすく磨き上げるためなのかなと、そう思ってた。

でもちょっと違うかも、もっと根っこのところの問題かも、と思ったきっかけは、「『超』文章法」を読み直したことだった。それも最初の1章だけ。この章は「メッセージの重要性」がテーマになっている。

文章を書く作業の出発点は、メッセージの明確化である。これは、「読者にどうしても伝えたい」内容だ。(p.10)
学術的な論文が成功するか否かは、九割以上、適切なメッセージを見出せたかどうかで決まる。[...]エッセイ、評論、解説文などの場合には、メッセージの重要度は、学術論文の場合に比べれば低い。それでも、文章が成功するかどうかは、八割方メッセージの内容に依存している。(p.11)

ちょっと見ると当たり前のことで、8割や9割とまで言い切るのはすごいけどまあそうだよね、と思いながらページをめくっていくと、こう指摘されている。

文章を書く作業は、見たまま、感じたままを書くことではない。その中から書くに値するものを抽出することだ。見たこと、感じたこと、考えていることの大部分を切り捨て、書くに値するものを抽出する。これは、訓練しないとできないことである。(p.18)

これだ、と思った。僕が一度目の見直しでやっていることって、これだ。

僕が文章を書くのは、生活や仕事の中で、あるいはSNSやニュースを読んでいるときに、「あれ、なにかこれって...引っかかるよ?」と思った時が多い。書き出す前に、なんでこれが僕には引っかかるのだろうと考えると、僕の中にあるあれこれのトピックに関係があるからだと気づく。だから、引っかかった出来事と僕の中にあったトピックを合わせて書く。

例えば、ロボットやAIが人から仕事を奪う、というニュースを読む。なにか引っかかりを覚えて考えてみると、仕事の中でよく「がんばって短時間で作業を片付けたら空いた時間分作業を追加されるだけ」と嘆かれたことを思い出す。その両方を書き出す。多少なり文章を書いてきた経験値があるから、関連して、思い出したトピックや面白くなりそうなトリビアも書き加えていく。なんとなくそれをつなげたような結びの一文まで手癖で書き進められる。

でもこれ、読み手から見たら「その二つ関係あるの?」ということになる。だって、僕の職場の人が「短時間で作業を片付け」られたのはがんばったからで、ロボットやAIは関係ない。この時点でその二つの関係は、まだ僕の頭の中にしかない。そんな感じで、関係性がよくわからないトピックやトリビアが、おもちゃ箱をひっくり返したみたいに散らばった感じになる。

実はこの時は、そのトピックの間に見つけた「関係性」こそが、メッセージだった。ロボットやAIの活用が「8時間」かかってた作業を4時間で可能にする。そして作業は4時間で済むようになっても、僕たちは「8時間」働かなければならない。この「8時間」ってなんなんだ?これが僕の覚えた引っ掛かりの正体だったし、それが「ロボットに仕事を半分奪われたら4時間だけ働けばいいじゃない?」のメッセージになった。

このメッセージにつながりの薄いトピックやトリビアは省いて、文章全体を組みなおした。つまり僕が「一度目の見直し」だと思っていたことは、まだ文章を書く前の「メッセージを明確にする」作業だったわけだ。「書くに値するものを抽出する。これは訓練しないとできないことである」とある。訓練できてないから、それが頭の中でできていない。だから画面や紙の上でやっていたのだ。僕が「書き上げた」と思ったタイミングが、実は「書き始める」タイミングだったわけだ。

文章が早い人というのは、まず第一に「メッセージを頭の中で明確にできる」人なのかもしれない。書くのは一度で済むし、頭の中でやるメッセージの明確化は、食事しながら、移動しながら、場所や道具に拘束されない形でできる。でもそこに至るまでは、文章は一度では書き終わらないと思っておくぐらいがいいのかもしれない。本当に書き始めるのは、一度書き上げてから、なのだ。

(ヘッダ写真はJean-Pierre Bazardの「Les illuminations des fêtes de fin d'année 2014 de La Merlauderie (37).JPG」。ライセンスはCC BY-SA 3.0。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?