亘理熱気球フェスティバル2013-10-23_21

被災地亘理町に熱気球フェスをもういっこ!

本記事はクラウドファンディングプロジェクト「空から未来を描く。宮城県亘理町を"被災地"から"熱気球の町"へ。」の支援記事でした。プロジェクトは目標金額を無事達成しました。ご支援、ありがとうございました。

少し前の話ですが、駅ナカのダロワイヨに定番「ラ・フレーズ」のアレンジで「もういっこ」というケーキが並びました。

「もういっこ」は使われた苺の名前で、宮城県亘理町の特産品。JR地域素材応援プログラムが苺団地の様子を紹介していますが、かつては防潮林を挟んで砂浜の近くに広大な苺畑が広がっていたそうです。2011年の津波は畑をさらい、後に塩を残し、一帯は畑として再生できず、草はらが広がるままでした。「もういっこ」農家はより内陸側でのハウス栽培に移行を余儀なくされ、限られた区画でかつての畑地の生産分を補うため「通称いちご団地」化しました。

防潮林は再生への植樹プロジェクトが進んでおり、僕は苗木作りを手伝うボランティア・ツアーで2015年6月と11月に亘理町を訪れました。土地の種、土地の苗から育てられた若木が植えられ、緑道や公園が整備されて、年に一度は熱気球をあげるフェスも行われるようになりました…去年までは。今月初め、今年はこの費用が足りず、クラウドファンディングサイトReady Forで支援を募っているとのメッセージをもらいました。

「気球の町」は亘理町が掲げた新しいスローガンで、フェスもこの町興し事業として開催されていました。しかし、協力を求めるメッセージを以前お世話になった現地の方からいただいた時、僕が思ったのは町おこしへの影響ではなく、町の子供達が年に一度、空から「おらほの町」を眺める機会がなくなるのか、ということでした。

宮城県は海岸から蔵王連峰までの平野に広がっています。亘理町も、海側と津波の届かなかった街側では被害も復興も度合いが違い、そして復興活動への温度感も違うと聞きました。2015年の往訪時、亘理駅隣接のお城を模した「悠里館」天守閣から見た風景には、草地のまま残る「津波到達ライン」がまだ見て取れました。

それは仕方のないことなのでしょう。その中で産業が動き出した地域は、まだ生活も復興半ばの地域を支えるよう、町の経済の原動力として先行して走り出す。それはむしろ正しいことだと思います。しかし暮らし方や温度感が別れても、気持ちまでは「街側と海側」「街の子と海の子」のように別れてしまうことがないといいな、と思います。

気球はまず亘理町の人たち、とくに子供達を乗せるためにあげられます。子供達が一つでしかないおらほの町を眼下に一望し、大人達が年々薄れゆく津波到達ラインをその目で確認する機会。僕にはそれが亘理町の復興活動にとってなんだか象徴的なものであるように(勝手に)思えたのです。灯台が火を灯し続けるように、亘理町の空に毎年熱気球が上がり続けたらいいな、と思います。震災が過去のことになるときまで。

メッセージをもらって支援はすぐに決めたものの、その時僕の中にあった気持ちを言葉にするのに随分手間取ってしまいました。クラウドファンディング期間はあと2週間、14日になっており、目標額達成にはまだ30%、50万円必要です。もし賛同いただける方がおいででしたら、ぜひ以下のページから支援をお願いします。

空から未来を描く。宮城県亘理町を"被災地"から"熱気球の町"へ。(NPO法人わたりグリーンベルトプロジェクト 2018/08/01 公開) - クラウドファンディング Readyfor

ページにある通り、支援額は0円から。このページをTwitterでツイートしたり、Facebookでシェアしてもらえれば、それがもう支援です。よろしくお願いします。

※亘理町についての情報および写真の多くは僕が話を伺った2015年当時のものです。現状と相違がある場合はご容赦いただきたく、またお知らせいただければ非常にありがたく思います。

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