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フィクションのリアリティ

先日、知人と話している時に「フィクション(虚構)だからリアルじゃなくてもいい」みたいな話があって、そうだろうかと引っ掛かった。検索してたらこれが出てきた。この一連のツイートには同意できるところが多い。

僕がリアリティも欲しいと思うのは、こういうことかもしれない。

「リアルでない」などが劇中気になって仕方がない場合は、それは嘘のつき方に失敗しているんだと思う。わざわざ騙される為に見ているんだから気持ちよく騙して欲しい。(島国大和, 2012-05-10 00:17:00
リアルなんて所詮言葉のあやだという立場だが、リアルなんかどうでもいいという作りには共感できない。(島国大和, 2012-05-10 00:26:33

フィクションは作者が騙し読者が騙されるという「共同作業」。読者をその気にさせないと成立しない。作者の方が雑な嘘でよしとして手を尽くすのを怠れば、読者にその分努力を求めることになる。でも読者の方に努力してあげる筋合いはないだろうな。少なくとも親切に、丁寧に、リアルな嘘を作ることが必要だと思う。

一方で、次の部分にもうなずけてしまうのだ。

さきほど、バックトゥザフューチャーの話をしたが、あのレベルの物語ならあのレベルのリアリティで十分で、あれを見てリアリティがないというのは、無粋な突っ込みだと思う。(島国大和, 2012-05-10 00:13:38

僕たちは多分、特にシチュエーションや展開の荒唐無稽さに寛容で積極的に騙されてあげられる。一方で、人物造形にはわりと厳しいんじゃないかという気がする。自分とは違う考え方であってもいいけど、そこに「人間だものね」と思えるリアリティがほしい。登場人物の心の動きに納得できないと、共感出来なくて、感情移入しにくく、物語に没入できない。

わざわざ騙される為に見ているんだから気持ちよく騙して欲しい。わざわざ騙してやってるんだからありがたく騙されろよ、と言われてもノリにくい。ふと「コンシェルジュ」という漫画にあった「納得力が足りない!」「説得してくれるのを待つ気か!説得力の足りない分は納得力で埋めてまず動け!」みたいな話を思い出した。でもそれは人生の話であり自分に言い聞かせる話だ。エンタメの話、それも作者が読者にするような話ではない。

世界観はデタラメでも、人はリアルに、丁寧にというのがフィクションのスタートラインというかボーダーラインというかかと思う。

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