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人間関係と愛の形の話を書こうとしていたもの。社会環境編 #kmnac2021

 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2021の24日目の記事です。まだまだ熊野寮祭は終わらない。投稿時刻現在において前日,前々日の記事は観測されていませんが…熊野らしい。
 さて「アドベントカレンダーの24日目の記事」ということは今日は12月24日なんですね。「日が暮れる頃」に投稿しようと思っていたが案の定この時間になった。なお、これを優先して今日の2355締め切りの学習指導案まだ書いてない、後1時間。
 現在の社会規範上クリスマスイブという日付時間の持つ意味。せっかくだから関係する、イメージに合う話を書こう、人間関係と愛の形の話を。

(…といって書き始めたのだが、書き終わってから振り返ると最初に書きたかったものとははるかに異なるものができてしまった。キリがいいのでこれはこのまま出して、次回、具体的なケースを別記事で書きたいなと思う。)

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 関係性というのは人間が人間たる根本の一つだと思う。少なくとも私はそう。人間関係・コミュニケーション・コミュニティといったキーワードが私の半身を支配していて(残り半分は知識・情報・好奇心・アカデミア…といったキーワード群)、こうして文転してまで社会学を学ぶに至っている。
 これらのキーワードはわたしの根本2つのうち一つであって(もう一つは好奇心・知識・情報)、やっぱりこれは人間に自明に必須なもの、人間の最大の特質だと思うな。

 一方、人間関係の形は社会的な要請と規範により主だった形を大きく変えてきた。近現代の人間関係の特徴として、公領域と私領域の分離による「同僚」と「友人」、家族制による「家族」、1対1の異性愛規範による「恋人」などの関係が挙げられ、それぞれに社会規範上主立った役割、出来ることと出来ないことが概ね決まっている(各位のメゾな生息領域においてそれは大きくかわることも多いが)。
 多様性の時代とも呼ばれる現代、人間関係は前時代よりもある部分は自由になり、またある部分ではより硬直しつつもある。かつては家族の役割ははるかに大きかった。農村や家内制手工業において、家族は生活の基板であるとともに、仕事仲間でもあった。婚姻も家族に縛られることが多く(家柄なんて概念もより強い)、家父長制の下で大家族で暮らしていた。それが今や目的別に分離され自由になった。各々は自由に恋愛し、場合によっては結婚に進み、場合によっては子供を産み核家族を形成する。これが恋愛と家族、最も私的な2つの関係性であり、その外側として趣味等を基軸に自由に集まる私的な「友人」と採用と就活のマッチングとしての自由労働市場による利益集団への所属として公的な「同僚」などが存在する。

 これらの人間関係を別々に個人が選択出来るようになったことは自由度の増加である。しかし、それは人間関係に対する「役割の組み合わせ」の固定化でもある。同僚との私的な関係は忌避される傾向にある。「飲みニケーション」といった業務の円滑化の意味をも部分的には確かに含むコミュニケーションの機微において、それが業務内であるかの区別が求められる場合が増えている。子育てもまた核家族の内側に押し込められ、その責任は両親二者にのみ重く課されるようになってしまった。

 そして、この切り分けは人間関係の特に私的な部分、恋愛と結婚に大きな影響を与えている。現代の社会規範において私たちが恋愛、そして(一般に)その先にある結婚・(生殖)家族と聞いて想起するもの、それに属する領域のものを獲得したければまず恋愛関係こそを構築する必要があるのだ。
 しかし、恋愛関係とは何だろうか。前段のように、人間関係の形は歴史的に大きく変わっており、現在では前提のようにすら思われる自由恋愛規範はそう自明なものではない。特に、結婚はかつてはより家族制度と結びついていた。結婚と家父長制の家庭は共助と再生産のための制度であった。現代では人々は何の目的で結婚するのであろうか?実際に結婚という選択肢を選んだ者でも(特に子供を望まない者は)結婚がこの形である意味を明確に説明出来る者はそう居ないのではないか?私は、夫婦別姓問題や教育問題の混迷は、現代的自由の波及に対してそもそもの結婚と家族制度の再考が進んでいない為であると考えている。
 例えば、同性カップルの扱いに対し、婚姻が再生産の為の制度であれば、同性と異性に対して差をつけるのは尤もである。(それに「婚姻」という形がふさわしいかどうかは別である。現状、子供を持たない夫婦も増えていて1つのモデルケースとして存在感を増している。)そして、このような再生産のための制度が社会維持に必須であることは言うまでも無い。…という観点を私たちは婚姻制度・家族制度再考をするときに考え、それを私たちの自由と切り分けられているだろうか。
 恋愛関係に対する他方の大きな論点として、性欲・性行為と交際の関わりがある。結婚が明らかに再生産の為の制度の一部として捉えられて一体化していて、恋愛感情は副次的なものであるときには問題化しないが、これらが分離され恋愛・結婚が社会的に自由になり両性のみの問題になり、また避妊という手段の生まれた性行為が出産から切り離された現在では、性的な領域を独占的していることこそが恋愛の特質の1つとなっている。しかし恋愛はそうでない部分をも多分に含み、それとの兼ね合いをどう切り分けていくかというのは社会通念に大きく制限されるとともに、社会で特にプライベートなものとして大幅に各位に委ねられている部分があり、その狭間で各々の恋愛の規範の差分が大きく問題になることがある。
 余談だが、私たちの自由というものは近代の自由主義で考えられているものより微妙に小さいものではないかと考える。私たちの能力・権利は自然に発生するものではなく、社会的に維持されているものである。例えば、「子供を持たない自由」自身は認められるべきものであるとは思うが、社会が継続・発展することによる恩恵を社会的に生きる現代人は多分に受けていて、それを享受しつつその自由を行使するのであれば、より重い対価を払う必要性はあるかもしれない。もちろん思想上の立場が大きいが私見として。

 近代の発展に伴い、私たちは生存の危機からの安定した脱却という、自由への根本的な基盤を手にした。しかし現代はその飽和した社会の下で標榜された「自由」がまだ未熟で完成していない段階であると考える。現代社会に生きる人間の希望を切りわけ、分析し、社会環境として整合のとれ、各々の希望に添った真の「多様性の時代」を作る作業が必要であろう。

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…本来、もう少し具体的な話を書こうとしていた。せっかくクリスマスイブのアドベントカレンダーを押さえたので人間関係と愛の形の話として「なぜ私はクリスマスイブを彼女と過ごさないのか」ということを原初の疑問に記事を書こうとしていたが、前文で筆が進み、そもそもの社会規範に対してほぼ3000字書いていた。ある程度まとまりのいい文章になったのでここで1記事として公開することにする。次回、自分語り編…?それでは一旦指導案頑張ってきます。では。

このエリア140文字以内なんだね、実質twitterじゃん