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秀吉コワイ

「農民出身だから親近感が湧く!」
「いつも明るくて、人を殺すことを何よりも嫌ってた」
「泣かせてみせようホトトギス」

これが、私が巷で耳にする豊臣秀吉の噂。
言うまでもなく、戦国時代の英雄の一人である。


名古屋で農民の子として生まれ、
一念発起して同郷の織田信長軍団に入り、
BOSS信長のお気に入りとなってからはあれよあれよと言う間に出世を果たし、
信長の死後、いろんなライバルを蹴散らして最終的な日本統一を成していく。
晩年には海外進出を狙うも年には勝てず、元主君の姪っ子を妾にして生まれた子ども、秀頼を案じながら永眠。享年62歳。

いくつもの死地をくぐり抜けて
生き抜くだけでも大変な時代に
天下人まで昇り詰めた。


1570年 秀吉33歳。
金ヶ崎の戦い(福井県)。圧倒的不利な状況下での、圧倒的に死地に近いしんがり(撤退最後尾)を見事務めあげる。
1573年 秀吉36歳。
小谷城の戦い(滋賀県)。強固な山城・小谷城を調略によって孤立無援にし、内部の裏切りを誘発させた上での攻城戦。
1578年 秀吉41歳。
三木合戦(兵庫県)。広範囲に包囲網を張り巡らせ、三木城に籠城した人々に兵糧が渡らないようにした。三木の干し殺しと言われる。
1582年 秀吉45歳。
備中高松城の戦い(岡山県)。城を水攻めにするなんて、そんな中国史みたいなことがあるのか。

そして、本能寺の変からの中国大返し、からの山崎の戦い。そして賤ヶ岳の戦い。
ここで秀吉は天下統一に王手をかけた。
大阪城の築城も始まった。

1584年 秀吉47歳。
小牧長久手の戦い(愛知県)。織田信雄・徳川家康連合軍との戦い。織田信雄と講和を行い、家康の大義名分を失わせるというミラクルを用いて戦略的に勝った。
1587年 秀吉50歳。
九州の役。九州の覇者・島津軍を降伏させる。
1590年 秀吉53歳。
小田原の役(神奈川県)。難攻不落の北条氏の城・小田原城を力攻めせず、周囲の支城を攻め落として孤立無援とし、降伏させる。

これで名実ともに天下人となった。

そして
1592年 秀吉55歳。
文禄の役。朝鮮出兵。
1596年 秀吉59歳。
慶長の役。朝鮮出兵2回目。
1598年 秀吉61歳。
死去。


…親近感なんて湧かない。
どこをどうとってみても異能でしかない。

あの時代の農民の子ということは、文字の読み書きさえ出来たかどうか。
6歳の頃、寺に預けられていたというからもしかしたら多少の学問は習ったかも知れない。
でも、後年あれだけの手紙を書いたり、連歌をしてるところを見たら、言葉には尽くせないほどの努力をしているはずだ。今生きるために必死な農民と、そこは気にせずに学問をすることが日常に組み込まれていた武士とは条件が違う。

そして、応用力。頭の柔らかさ。
備中高松城の水攻めに関して、私は現地にいったことがないけれど、果たしてその場に立った時に思いつくのだろうか。それは、日々農業に従事し水利に携わっていた人間だから思いつくのではないのか。三国志演義の下邳の戦いを知っていたとしてもあんなに上手く機能するとは思えない。
やはり、田に水を引いてるのを見たり、実際にしていた人間だから為せるのではないか。

金ヶ崎の戦いもそう。小谷城の戦いも、三木合戦もそう。
抵抗勢力の次から次へと繰り出す技に幾度となく作戦を変え、調略を行い、有利な状況へと持っていく。
「ああ、もうめんどくさっ」と思うような状況でも最後はきちんと片付ける。
これは、頭の柔らかさと、諦めない心が同居していないと出来ないと思う。


親近感なんて湧かないし、明るくて人殺しを避けてる人とも思わない。だって、殺す時は殺しているもの。躊躇もなく。
「泣かせてみせようホトトギス」とも思わない。
「必ず泣くまで追い詰める」が、私の思う秀吉像だ。

人の心の小さな機微を理解する感受性を持ち、今の自分に出来る最大限を最短の時間で行うことが出来る、そして最高のタイミングがくるその日まで待つことが出来る異能の人。
それは、子供の頃の、最底辺の生活があったからこそなのか。
最底辺を経験した、本当の意味での頭のいい人が一番コワイのではないか。


私は、秀吉が嫌いだった。
私の知っている秀吉は、品がないからだ。
私が敬愛する信長の姪っ子を妾にするなんて言語道断、
そう思っていたけれど
小谷城や大阪城を丹念に観た時に、真っ先に思ったのは
「秀吉コワイ」
だった。

何故そう直感的に思ったのか
自分の頭を整理してみたくてツラツラ書いてみた。

でもやっぱり、
どうやっても
「秀吉コワイ」


おしまい













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