再びの小谷城~中丸から大嶽城へ~

私は凄く凝り性だ。
深掘りの癖が凄い。自分でも辟易する時がある。

もうちょっと、もうちょっと、と進んでいくうちに、気が付いたら誰も周りに居ないことが多々ある。ごめんね、皆。置いてけぼりにして。

近頃の私は、滋賀県長浜市にある小谷城が気になって仕方ない。
前回は、思いつきで登ったのと、クマとの遭遇に怯えたのとで、追手道から本丸までしか行けなかった。
それでもあの城の素晴らしさを堪能できたけれども、どうしても本丸から北へ、大嶽城(おおづくじょう)まで歩いてみたかった。

ということで、再びの小谷城へ。

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本丸から中丸までの間に、空間を区切る堀切がある。

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結構な広さと深さがある。ここから北はまた異質の空間になることを示されているよう。
そして中丸へ。
まず1段目!

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そして2段目!

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3段目東側にある刀洗池。

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この池を通って京極丸へ。

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京極丸の名前の由来は、浅井長政のおじいさんの亮政が、当時の上司にあたる守護の京極氏の為に用意した館だったから、らしい。京極氏は北近江一帯を支配していたけれど、相続争いやらなんやらで内紛が生じ、そこに亮政は絡んでいって弱体化を進めた模様。相対的に、自身の影響力を強めていき、京極氏との力関係を誇示するかのような城を建てた。
対外的にはこの頃一番勢いがあっただろう。
周囲の有力武士達も、この浅井家のウェーブに乗っかって安泰を図ろうと思っただろう。

が、しかし。

世は常ならず。

3代目長政の時代に、この京極丸を豊臣秀吉に攻められたことで、小谷城がオワコンとなる。

京極丸より西の清水谷から「水の手」という道があるらしく、そこを登って夜襲をかけたらしい。
何とか見つけようと思ったけど分からなかった。

当時、京極丸より北の小丸に浅井久政が、京極丸より南の本丸に浅井長政が、陣を張っていた。中間点の京極丸を落とすことで連携をぶった切ったわけだ。

小谷城は、周囲の支城を調略によって落とされ、清水谷の町内を焼かれ、補給路となっていた小谷山東に位置する大吉寺を攻められ、北の守護担当と思われていた朝倉義景が滅亡したことで完全に丸裸にされた。時間があるならこのままでも、時間がないなら火をかけてカタをつけてもいいのに、そうではなく攻めた。

なんなら、秀吉の後本丸を攻める際には信長自身が出動している。

なんだろう。
この違和感。

浅井長政を懲らしめたかった?裏切ったこと後悔させたかった?「ゴメンなさい」と言って欲しかった?
それとも妹のお市が気がかりだった?
凡人の私には、信長の気持ちは分からないけれども。

なんとなくモヤモヤしながら、浅井久政が篭もり、そして自害した小丸へ。

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小丸の東側には立派な石垣が当時のまま残っている。
野面積み・乱積みかな。
元々石垣の専門集団は、近江坂本(琵琶湖西岸)の穴太衆が有名で、主に寺社勢力が施主だったらしい。
「権力もお金も持っている寺社が利用している穴太衆に、ワシらも施行依頼しましたねん」というのは、武家のステータスだったみたい。

こんなにも権力誇示していた曲輪が落とされるなんて!
攻められてる方からしたらもの凄いモチベーションが下がるし、周囲も「あぁ…」と思ってしまう。
本丸に直で行かれるよりも、なんか切ない。


「人は石垣、人は城」と言った武田信玄の偉大さよ…
彼が上洛前に亡くなったから浅井長政は窮地に至るわけだけれども。

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小谷城詰めの丸の山王丸へ。
ここで私はすごくビックリする。


石垣が単立で存在している…

高台になった場所に、まるで壁か弾除けの様な感じで立っている。
私の中では「石垣は土台」という思い込みがあり、単立で立っているサマは異様だった。
単立で存在するのは日本では沖縄のグスクだけ、と思っていた自分の無知にビックリするやら、キュンキュンするやら…
にしても、あれはなんだろう、という謎を抱えたまま、六坊へ。

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有力寺院の出張所の宗派は何だったんだろう、いつか調べようと思いながら通り過ぎて、いざ大嶽城へ!

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大嶽城に向かう道中の、小谷城東側の景色。

そして…

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やっと到着、海抜495m!感覚としては円形の、大きな広場だった。山頂から見る景色は、まさに北近江一帯を見渡せれるに値する覇者の気分を味わえるものだった。

小谷城の戦いの時、応援に来た朝倉義景軍は大嶽城に陣を張ったが、暴風雨に紛れた信長軍に夜襲をかけられこの地を手放し、一乗谷(福井県)に退却する。信長自ら追撃し、朝倉義景は自害する。

確かにねぇ。
ここで陣を張って、攻められたらビックリするかなぁ。
外堀を埋めてジワジワ来ると思ったら、この急峻な山を登ってきますか?ありえないでしょ、そんなリスクとコストをかけるなんて。長期戦やと思いますやん。ただ応援に来ただけやのに、威嚇だけのつもりなのに、ガチで命の取り合いしますん?

当時の人達は、私と同じように思ったんだろうか?
生まれた時代も環境も違うから、決して本当のところは分からないけど、早々に撤退を決めたところを見ると、似たような思いだったんだろうか。

あれだけ勉強して臨んだ、小谷城登城Vol.2。

それでもまた新たな「?」が増えていく。

だから歴史は面白い!と改めて思いながら、次回はどこからの目線で見ようか、なんてワクワクしながら今回は終了とする。


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