小谷城跡にて、一人の男を思う。

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最近、山城が気になって仕方がない。

今回は滋賀県長浜市にある、戦国大名浅井氏の城・小谷城に登ってみた。

滋賀県の北東に位置する標高495mの、地図上逆V字型小谷山に築かれた、山城である。

尾根伝いに、馬蹄状に築かれたその山城を、追手門から歩いてみる。害獣予防に張り巡らされた金網の扉を開くと、もう、それだけでこの山城に登ろうとする気が失せる。

あまりにも急峻な道を歩いて、尾根上にたどり着く。

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まさに絶景。
右には深く切り込んだ谷、正面には虎御前山が見える。

ふと、思う。

何故、浅井氏は滅んだのか。
これだけの山に、居城を築くだけの力がありながら、何故織田軍に敗けたのか。

きっと、篭城して、だけど補給路を絶たれ、戦う気力も削がれ、いたたまれず浅井長政が降伏したんだよな?

なんだか歴史の授業では、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗け、逃げる朝倉軍を織田軍が追撃・滅亡させ、ポツンと残った浅井軍が小谷城の戦いで敗けて、浅井父子共々、金箔のシャレコウベになっちゃう、そんな感じで教わったけど、具体的にはどうなの?

少し調べてみてわかった。

また出てきた…
こんな時、いつも名前が出てくる…

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…アイツ、天才か!

小谷山の尾根伝いに築かれたそれぞれの砦の中央を、急峻な山道を3000人率いて夜襲にて占拠し、浅井父子の連携を分断、父子諸共自害に追い込む。
それ以前に、小谷城周囲の有力武将を寝返らせ、後方援護の朝倉義景を滅亡させて浅井軍の士気を消沈させ、浅井軍内部の調略を行い、まさに丸裸にした上で内部を腐らせていたにしても、だ。

曲輪が連結して存在している以上、主要部を一つ占拠すれば、一気に形勢が動くのは凡人の私にでもわかる。
問題は、それを実行する行動力と覚悟だ。

この、急峻な坂道を登れたところで、長く連結した曲輪からの攻撃があれば身動きがとれず、死にまっしぐら、という想像しか出来ない。
いくらお膳立てが完璧でも、一度でもその思考に囚われれば動けなくなる自信が凡人の私にはある。

それを、あの天才はやってのけた。

9割の勝算と、1割の、結果に対する潔い覚悟をもって。

秀吉という戦術の天才の凄みと、信長という戦略の鬼才の前に、滅亡するしかなかった浅井氏の諸行無常を感じずにはいられない、そんな深みのある山城だった。

(熊やカモシカの出没にビクビクしているようでは、私の山城攻めもまだまだ覚悟が足りないな…)

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