美醜

一般論的な「美しい」「綺麗」は本当に「美しい」のか。「綺麗」なのか。世に蔓延っている美的価値観に近い方が美しいとされる世の中で、私たちは自分らしさを追求することは可能なのだろうか。ネット社会で創り上げられた美しさの支配的な価値観はもう二度と払拭できないのか。
こんなことを考えながら容姿端麗な人が崇拝されているコメント欄をダラダラと見る。つまらない。

SNSをみていてつくづく思うこと、それは「あなたらしく」なんて綺麗事だということ。「あなたらしく」なんてほざいているインフルエンサーたちが世間の美的価値観の基準を生んでいるんだから信用ならない、と私は思う。
正直言ってそういうインフルエンサーには同情する。ある概念を肯定するということは、その対称にある存在を否定しているということになるわけで。ファンを失わないように、安泰でいられるように、当たり障りのないことをいう。つまり綺麗事を言っておけば間違いないということだ。と、まあこんな感じの、表現が制限された窮屈な世界に住んでいる彼らの心中を察する。思考と行動の差異による葛藤の渦へ身を投げる行為には勇気がいることであろう。

ある一人の人間の観念があっという間に拡散されて世の尺度になるこの時代。表現できる媒体が増えることに伴って不特定多数の人間に配慮しなければいけなくなり、偽装されたペルソナを被った意見が世論として固定化されていく。


“ある美しさを目指すことは、つまりはそこに存在する尺度の肯定を意味する。私が考える「可愛い」「美しい」何かになろうとすること自体が、ある暴力の一端に加担している行為なのではないかと、そんな思いにも駆られる。巷に溢れる「顔が良い」「可愛いは正義」のような、安易なフレーズが怖い。勝手に悪を産まないでくれ。”

志賀玲太『落ちながら笑う』

何度読んでもやはりこの美しくとも残酷な文章が身に沁みる。言語化できずに喉に詰まっていた塊がやっと取れたような、そんな気がした。


私が惹かれるモノやヒトは私の生まれ持った感性によってそう思うのか、それとも世間に合わせるために身につけた価値観によるものなのか。後者であるとしたら、これらの価値観に侵食された私は一体何者なんだろうか。

ネットが創り出した尺度が強固な絆となり、皆同じ考えしか持てなくなる、そんな機械的な社会を目前としているというのに怖くないのか?

固定化した価値観でしか物事を図れなくなった人間たちが多様性を謳うなんて馬鹿げている。つまらない。

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