災禍の顔貌──『寝ても覚めても』雑記と感想

■『ビリジアン』における「わたし」の位置

 私が柴崎友香にはじめて触れたのは、美術作家であるミヤギフトシの連載で取り上げられていたのをきっかけに、『ビリジアン』という小説を読んだ時だった。その本は、話者である一人の女性の十歳から十九歳までの記憶が断片的につづられているのだが、二十篇の掌編の連なりは時系列に沿わぬ形で、場面や出来事が散発的に起こる。この小説の端的な特徴を表すのは書き出しの一節である。

朝は普通の曇りの日で、白い日ではあったけれど、黄色の日になるとは誰も知らなかった。テレビも何も言っていなかった。

  印象的な「黄色の日」は、話者の感じる、何か抽象的な世界の感触を示すものではなく黄砂を意味している。故に、それは気象庁がある程度予測しているはずであり、「誰も知らない」ということはあり得ないだろう。それでも話者はそう語り、「黄色の日」のことを誰も知らないものとして、この世界は立ち上がる。『ビリジアン』は、こういった確定された世界が都度生起し、ある時間に位置するある出来事が、それ自身の内に収まって完結した形で現れる。さらに、掌編は時系列を自由に前後しながら現れ、部分と部分が全体の中でその配置を自由に組み替えながら、濁流となって読者に迫ってくるのである。この小説の肝となるのは、こうした個々の出来事が一人の話者の記憶の中に分け入ってゆく形で経験されることにある。話者自身の現実の認識が一定のスパンによって区切られ、裁断されているかのような感覚である。特に、引用文にも明らかなように「黄色」といった、知覚によって捉えられる描写がそれを下支えする。『ビリジアン』は、話者である「わたし」の知覚を通して生起し、記憶される世界の諸相が、結びついては瓦解することを繰り返し、「わたし」そのものの連続性や立ち位置に揺さぶりがかかっているのである。

■朝子の物語

  さて、『寝ても覚めても』を原作者の他の作品という観点から見つめると、そこには共通するものが見て取れるだろう。その上で、まずは泉谷朝子の物語として本作を考えてみる。大阪に暮らす朝子は、牛腸茂雄の展覧会で偶然居合わせた鳥居麦という男性に一目惚れし(これが朝子の一目惚れであることは後述する)、付き合うこととなるが、麦は突然姿を消す(※余談だが、ここでの牛腸のチョイスは非常に象徴的である。カメラが最後に映し出す二人の姉妹のポートレイトは、日本のドキュメンタリー映画の大家・佐藤真による牛腸の没後に撮影された映画『self and others』のパッケージにも採用されている。佐藤の映画では、自己/他者、現在/過去といった撮影行為における複数の対立構造が根本的なかたちで問われてゆく)。二年後、居を変え、東京でカフェ店員として働いていた彼女は得意先の会社で一人の男性と出会う。丸子亮平を名乗るその男性は、容姿は麦と全く同じであるが、朝子とは初対面の全くの別人である。一つの容姿に二人の人物を見てしまう朝子は、彼との関係をどう築くべきか葛藤を続ける。本作を朝子の視点から見ると、こういった、過去が現実とほぼ等価な肉付きで迫ってくる物語としてみることができるだろう。

 さらに、作中では秋葉原連続殺人事件、東日本大震災といったもので描出される形で現実社会の時間の進行がまずはあり、その進行と同じくして、個々の登場人物の時間も進行する。麦は海外での経験ののちモデルになり、亮平は会社でのキャリアアップ、亮平の同僚である串橋耕介と朝子の友人の鈴木マヤは、馴れ初めから家庭を持つまでの時間が作中に存在する。朝子の大阪時代の友人島春代はシンガポール人と結婚してプチ整形もしている。同じく大阪の友人岡崎信行はALSを患い寝たきりに、といった具合である。ここで着目したいのは、登場人物や社会、さらに言えば自然が、時間の流れに沿って状況を変化させているのに対して、朝子には本質的な変化がほとんど起きていないということである。麦と亮平が共通して持つ一つの顔を前にして、朝子も「同じ」まま彼らの前に立つ。朝子には、かつての時間も、今の時間も同じ地平に現れている。象徴的なのは、東京で引っ越しの荷造りを行うシーンだろう。亮平が外出した直後、部屋に一人取り残された朝子のもとに麦が訪れ、彼女が混乱してドアを閉めてキッチンに倒れこむと、間を置くことなく亮平が帰宅する。この場面ではシーンの展開が早いため、あたかも朝子が麦を幻視しているかのように映る。このイメージは、引っ越し祝いの席での麦との二度目の再開の場面でも引き継がれることとなる。麦に手を引かれて駆け落ちするように乗り込んだタクシーの車内で朝子は、「成長した気がした」「ここまでが夢だったみたい」といった言葉を口にする(※台詞については記憶が曖昧)。『ビリジアン』と同様、朝子は「顔を見る」という知覚経験によって、過去と現在の間の距離が限りなくゼロに近づいた結果、彼女自身の連続性や立ち位置が揺れているのである。

■麦と亮平の役割

  続いて、本作を亮平の視点から見る。作中では、朝子視点/大阪→亮平視点/二年後の東京→朝子視点/春代と再会して以降といった具合に大きく視点主が変化する。ここで、なぜ亮平の視点で語られる必要があったのかを考えたい。そこで重要となるのが麦の存在である。麦とはどのような人物なのだろうか。ふらっと現れては、気まぐれにどこかへ去ってゆく。明確な指針を持って生きているようには見えず、台詞も、過剰なくらいに淡白である。彼の佇まいは脱社会的、非社会的に映る。それは映画冒頭の朝子と出会った頃も、東京で再会した時も変わらない。同じ容姿を持つ亮平がごく一般的な意味合いでの好青年であるがゆえに、麦の厭世的な雰囲気は際立つ。

 さて、ここで文脈を無視して大胆な仮説として麦を「死」の表象と考えてみる。朝子から見て麦が「過去」の表象(=represent/代表)であることは間違いないので、より普遍的な立ち位置をそこに見るということである。麦が「死の表象」であれば、彼の異様な立ち振る舞いにはある程度の合点もいく。淡白なせりふ回しも、彼自身が空疎なことの表れと捉えることが可能になるだろう。さて、その上で亮平である。朝子と画面の外にいる観客にとって、冒頭で消えたり現れたりを繰り返す麦の存在は希薄であり、「死」の表象として考えるならば、そこでは肉体の印象が乏しいと言える。結論を先取りするならば、麦が肉体から差し引いたものを取り戻す役割が亮平には当てられていると考えられる。

  迂回することになるが、ここでまた別の例を提示したいと思う。取り上げたいのはアメリカ人の小説家ドン・デリーロが2001年に著した『ボディ・アーティスト』である。自らの肉体を使用して様々な表現を行うボディ・アーティストのローレンは、関係が崩れかかっていた夫レイの自殺をきっかけに、果てのない喪失感を抱え、夫婦の別荘に一人で引きこもりがちな生活を送る。そんな折、タトルという一人の青年が突然彼女の前に現れて、別荘に住み着くようになる。しかし、タトルは自らについて何も語れない。彼には過去という連続した時間の感覚がなく、今その瞬間にのみ生きているのである。そして、この奇妙な青年は、別荘の中にあったレイの肉声が記録されたテープを真似てローレンに語りかけるようになる。あたかもそれは、亡夫による腹話術でも行われているかのように。

タトルは時間という概念を持たないがゆえに、彼女に「過去」への通行路を開いてくれるような時間の転轍機(※鉄道線路の分かれ目につけ、これを切り換えて車両を他の線路に移す装置)として機能するが、メランコリーを抱える者の「現在」に繋ぎ止められていないような感覚と、このような他者(※タトル)に過去を代表させることで可視化し所有するという行動には深い関係があると言えよう。メランコリーが、人から確かな枠組みのもとにある「現在」や「過去」を奪うとすれば、これらの行動はそうした失われた時を直接的と感じられるような関係に引き戻す試みである。

  引用したのは高村峰生による『ボディ・アーティスト』読解の中の一節である。ここでは、自らの内にタイムラインを持たないタトルが、インターネットというメディアの在り方と合致すると高村は語る。『寝ても覚めても』の作中に現れたモチーフと引き寄せて考えるならば、2011年3月11日で更新の止まったwebブログ、つまりは被災による死者のブログが震災のモニュメントとして機能しているという事実が挙げられるだろう。現在はアーカイブ化のプロジェクトも進行しているようだが、震災直後から様々な人々が見ず知らずの人の書いたブログの最終更新ページを訪れて、故人を悼むコメントを残している。デジタルデータは現実の事物とは異なり、風化が訪れない。故に、特定の時間にある個人がインターネット上に痕跡を残したという記録が、半永久的にそのままの状態を保ち、生きる記憶として人々の前に突き付けられる。『ボディ・アーティスト』におけるタトルは、自らの過去を持たないがゆえに、彼個人としてレイの記憶を阻むことなく再生することができるのである。

  再び『寝ても覚めても』に立ち返る。自らについて生い立ち以上のことを朝子に明かさない麦は(岡崎が麦の父親の入院を知っていたことからも、ひとまずは朝子に対してのみと考えるのが適当であろう)、連続性を持った、質量を持った肉体として立ち上がらない。むしろ先述のタトルと同じく、ある瞬間を再現するメディウムのような存在である。だからこそ、亮平という立ち位置が必要なのである。この映画では、一つの顔の中に二つの人格を見るということが起きているのではなく、一つの肉体が、表面として現れるのか、内実を伴う質量として現れるのか、ということが問われているのである。前者は麦であり、後者は亮平である。麦は表面であるがゆえに見る対象である。亮平は質量であるがゆえに触れる対象である。朝子と亮平が互いの頬をなでるシーンや、朝子がマッサージをするシーンはその意味で説得力を持つ。

 また、麦の肉体が、ある瞬間のメディウムであるとしたら、それは何を再現しているのだろうか?私は、それを冒頭の出会いの場面と考える。それはなぜか。ヒントとなるのは、震災直後に亮平と朝子が雑踏の中で向かい合うシーンである。道の真ん中で立ち尽くし、互いを見つめあい、時が止まったように周りの景色がスローモーションで流れてゆく。そして、朝子が対岸の亮平に向かって歩き始めると、カメラは彼女の歩みに寄り添うようにして動く。二人は抱きしめあう。この一連の場面は、冒頭の麦と朝子の出会いをなぞっている。異なるのは、朝子の立ち位置が逆になっている点である。麦と朝子の出会いは、映画の時間の中で始点に位置している。だからこそ、その前段階は観客には感知しえない。まずは、世界があの瞬間に始まる、ただそれだけである。別の言い方をすれば、出会いの場面で二人が何を考えているのか、何を意味しているのかを判断するのはやや困難であるということだ。近づいたのは、惹かれたのは麦の方なのか?それとも朝子か?はたまた二人同時に?対して、亮平と朝子のパターン。朝子から思わせぶりな(と取ることのできる)態度を示されたことをきっかけに、関心を強めてゆく亮平。しかし、その思いを発露させた直後に彼女に拒否される。そういった文脈が亮平と朝子のパターンの背後に敷かれている。あの瞬間、亮平の中には相手を渇望する感情を読み取ることができる。朝子は、麦に対する感情に決着をつけられていない以上、亮平以上に目の前の相手を望んでいるような、ポジティブな感情の働きはないように思われる。ここから分かるのは、歩み寄っている側ではなく、待ち受けている側が相手を渇望しているということである。これを、冒頭の麦と朝子のパターンに置き換えてみる。すると、花火が炸裂し、文字通りスパークするように出会った二人の姿も、異なる見方ができることに気づく。あの瞬間、相手を望んでいたのは何よりも朝子だったのではないか?麦は、朝子の望む行動をとっただけ。「朝ちゃんが呼んでたから」「正しいと思えることをしたかった」そういった作中の台詞と強く共鳴するように考えられる。一方の麦は、待ち望む朝子の彼岸に位置しているがそこに立つ文脈はどこにもない。ここにおいて、その過去が映画の実時間として存在しないことが、麦が「死」の表象であり、現実世界での存在未満の何か「不気味なもの」を示しているということに説得力を与える。朝子は、前後の文脈抜きにして麦に強く惹かれてしまう。一目惚れの瞬間、その、ある時間を再現し続けているのが麦である。彼はある特権的な出会いそのものの表面である。

■顔

  さて、ここまで柴崎友香の作品などを例に取り上げつつ、一方では、過去と現在が等価に存在することで、時間が止まっていると錯覚している朝子に対置される形で外部の世界が動き続けていることが。他方では、麦、亮平が作中で肉体の表面と質量という異なる役割の対立を演じていることを確認した。その上で、ここからは「顔」というモチーフに着目しながら、この映画全体を通して見えてくるものについて思索をめぐらせたい。さて、この映画自体が一人の人物の「顔」が二重の役割を演じることをテーマに据えている以上、そこに言及するのは当然のことと言えるだろう。しかし、ここで扱いたいのは、むしろ麦と亮平以外の人物の「顔」である。そこでまず取り上げたいのが、春代と再会した際に朝子が見せる表情である。麦と過ごしたかつての時間に何とか踏ん切りをつけ、亮平との関係を前に進めようとした時、大阪時代を知る春代が朝子の前に姿を現す。亮平を一目見た時、春代は朝子に戸惑いの表情を見せるが、麦のことを話すこともなくその場は収まる。しかし、三人がカフェに場所を移して談笑している時、亮平に朝子の過去を尋ねられた春代に目線を向ける朝子の表情は、圧倒的な緊張感をもって画面の中に現れる。自分の伏せている過去が、旧友の一言でにわかにその場に解き放たれ、亮平と自分の関係そのものへ決定的な形で作用するかもしれない。不安、恐れ、緊張、疑い、複雑な相を見せる朝子の表情は、また別の作品の中によく似たもの見出すことができる。それは、三島由紀夫の『金閣寺』の一節の中にある。

 私は息を詰めてそれに見入った。歴史はそこで中断され、未来へ向っても過去へ向っても、何一つ語りかけない顔。そういうふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかり切株の上に見ることがある。新鮮で、みずみずしい色を帯びていても、成長はそこで跡絶え、浴びるべき筈のなかった風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へさし出されている顔。

  これは、駆け落ちに失敗した一人の女性が、詰問を受けた際に押し黙る姿を捉えた一場面で、彼女は憲兵や野次馬から浴びせられる視線を拒みながら、内に抱える秘密を口に出すべきか葛藤している。彼女の外界と内界の均衡関係は、口元にわずかな隙間を作るだけで容易く崩壊する。三島は、人が秘密を抱いて押し黙った際の、口を境目にして顔に滲む表裏の緊張を、切株の刹那の美しさに重ねたのである。もちろん三島の描いた「顔」は朝子のそれとはシチュエーションも、想起される表情も異なる。けれど、私がここで考えたいのは、二つの「顔」が「決壊」の兆しを孕んでいる点である。朝子は春代に対して何も言葉を発することができない。なぜなら、その言葉によって亮平との関係が崩れてしまうかもしれないからだ。彼女は春代が口を滑らせないことを祈ることしかできない。そして、画面では朝子の右斜め前から、困惑に揺れながら緊張する彼女の「顔」が映し出されている。あの瞬間は何か、朝子の抱える緊張が、空間の中全体を支配する形で鑑賞者に経験されている。何か、全てが崩れ去ってしまいそうな予感が満ちているのである。それはすなわち、ある種のカタストロフと捉えることもできるかもしれない。個人の出来事が、その親密な画面によって観客の感覚に限りなく近づいて訴えかけ、何か作中の世界そのものを終わらせかねないような深刻さをもって迫ってくる。「顔」によって。

  もう一つ取り上げるべき「顔」がある。時系列は大幅に跳ぶが、それはラスト手前で、ALSを患った岡崎と朝子が再開する場面でみえる、岡崎の「顔」である。病によって、岡崎は筋肉を動かせない。表情は一つに固定され、声を発することもできなくなり、わずかな口の動きや気道から伝う音が、彼の唯一もつコミュニケーションの方法である。対面する朝子は、亮平を裏切るような形で麦と東北まで行くが、途中でまた引き返して亮平との復縁を望んでいるという状況である。かつてないほどに拒絶される朝子は、自分の愚かさにようやく気付き始めているようにも見える。これは、ごくごく個人的な見方にすぎないのだが、私には、様々なしわ寄せが現実的に手遅れとなった形で押し寄せている朝子が、岡崎と対面するという場面に、非常な残酷さを感じた。というのも、少なくとも私には、相手に何かを伝えるすべを失った岡崎の姿は、朝子がもしもそうなれば、彼女の抱える今の問題をすべてリセットするような、歪んだ希望の原理として現れているように感じられたからだ。彼女の内的崩壊そのものが、最善手であること。ここにも、先述のものと同様、カタストロフの予感と結びついた「顔」の存在を見て取ることができるのではないだろうか。

  さて、ここまでで何度か言及している、世界や状況そのものの決定的な崩壊、カタストロフについてだが、作中ではより具体的な形でも扱われている。一つには冒頭大阪の岡崎家のラジオから流れる2009年の秋葉原無差別殺人事件、もう一つは2011年の東日本大震災である。特に後者は、朝子が麦に別れを告げる際に重要なモチーフとして立ち上がる。防波堤が築かれ、何もなくなった野原のような海沿いの道は、まさしくカタストロフの後の世界である。事後的な場で、「死の表象」である麦に別れを告げた朝子が、果てのない海に臨むシーンでは、より生々しい形の「死」が導き出されるのではないだろうか。3.11直後、大量に海から流れ着いた遺体が、体育館などに安置された。家族や親しい人を探して、生き残った人々がその場を訪れ、ブルーシートをめくり、遺体の「顔」、デスマスクを目にしたという。この人でもない、この人でもない…そういった、死者の「顔」の記憶。また、私が仙台に住むある友人と以前に会話していた際に、彼が言っていたのが、津波が街路を飲み込んで行く時、すぐ後ろまで迫ってきた津波から逃げるようにして走行していた車が、道行く人々を次々に跳ね飛ばしていた、という話があるというのである。真偽のほどは確かではないが、友人がその話をしながら「最後の瞬間、彼らはどんな顔をしていたのだろうな」と言っていたのが、私の中には強く残っている。3.11と結びついた死者の「顔」の記憶。麦に別れを告げた朝子、死者の「顔」へと別れを告げる彼女の姿は、七年前に多くの人々がこの地で行った身振りの再演、土地の記憶との交感と、あるいは言えるかもしれない。

  さて、カタストロフと「顔」について考える中で、ラストのシーンについて言及する必要があるだろう。麦と別れた直後、東北の海を臨む朝子の「顔」と、最後に新居のベランダから目の前の川を見つめる朝子と亮平の「顔」は対置されているだろう。前者が「死」であれば、後者は「他者(生者)」という捉え方もできるだろうか。海は、果てが見えない。川は、対岸が見える。二つに共通するのは、触れられず、彼岸に何があろうとなかろうと眼差しを送ることしかできないということだ。故に、亮介と朝子が行き着いた二人の関係は、必ずしも希望的には映らない。九年前と同じ場所に戻ってきた朝子、しかし友人たちはみな散り散りになり、彼女が自らの能動的な所産として持ち込んだ関係は「猫」だけである。それ以外の旧友たちや亮介は、朝子と関係のない理由で、自然の摂理のように消え、新たに生まれてゆく。あるいは、ラストのシーンは事後的、グラウンドゼロ的な場に、自らの位置を仮設する希望的な物語としてみることもできるかもしれない。しかし一方で、秋葉原、東北、大阪、そして様々な「顔」の内に、カタストロフがそれ自身の置かれる場を転移してゆく物語に私は見えた。それは、時間というものの役割が剥奪された今作においては、むしろリセットボタンのように、様々な時間の位相を再現可能な場所として、場を均して設えなおす役割があるように思えた。

2018.11.18


【参考】
・柴崎友香(2011)『ビリジアン』毎日新聞社
・古谷利祐(2017)「わたし・小説・フィクション 『ビリジアン』と、いくつかの「わたし」たち」,『早稲田文学』2017年初夏号,p.100,筑摩書房
・高村峰生(2011)「接続された身体のメランコリー ドン・デリーロの『ボディ・アーティスト』におけるメディアの存在論」,『表象05』月曜社
・三島由紀夫(2003)『金閣寺』新潮社

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