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私なりの、かみさまとの付き合い方

先日、宗教勧誘っぽい人が来た。短めで終わったけど。
優しい笑顔の人だった。でも、ちょっと探ってくる感じも否めなかったから、モヤッとした。

私は、神様などの見えない存在とは、適切な距離を取りたいと思っている。
バキバキに、信じたりはしない。でも、時々は祈る。
不思議で素敵な出来事やご縁があったら、「素敵なこともあるもんだな」って、感謝する。
私はそんな感じが、今は自分に合っていると思う。

色んな考え方や付き合い方があって、いいのだと思う。
その人が安心したり、いいなって思うのなら、それでいいんだと思う。自分の心身と生活、そして自分の周りの人に、よくない影響を及ぼさない限りは。
宗教勧誘の人も、「私も救われたから、他の誰かにも」って、そういう純粋な気持ちで声をかける人もいるんだと思う。他の目的の人も、そりゃあいるだろうけど。

ただ、例えばだけど、勧誘者が相手に対して色々話を聞いていく中で、病気とか人間関係の不和とか、いわゆる「不幸の種」のようなものを見つけて、それに食いついて、「この神様を信じれば、絶対救われます、解決します」とか言うのは、私は反対だ。

あくまでも私の持論だが、「絶対」はないぞ、と思うからだ。
あと、事情をよく知らないのに、そういうことを簡単に言わないでいただきたいと思う。
結局さいごは、自分で解決するなり、誰かの力を借りるなりして、生きていくしかない。変えられないどうしようもないことは、どうしようもないなりに葛藤して、でもそれなりに受け容れて、生きていかないといけない。時間がどれだけかかってもいいから。

神様にすがりたいような時期があった。
自分語りになるけど、私は、とにかく「普通」になりたかった。
でも、お願いお願いって祈ったところで、私の全部が「普通」になることはないのだ。これまで一度も、そんな日が来ることはなかった。

朝起きたら心臓の構造が、健常な人と全く同じになっていたら。
みんなと一緒に運動会で走っても、あの電車に間に合うように全速力で走っても、心臓が痛くなるくらい苦しくならなかったら。
疲れや身体のことを気にせず、自分のしたいことを思いっきりできたら。
手術を数年おきに受けなくてよくなったら。

努力で解決するものもある。運がよくて解決するものもある。
でも、これは、これだけは、どれだけ願っても、叶わないのだ。
私は、一生、わたしなのだ。当たり前なんだけど。

約2年前、心臓の再手術が決まったとき、私はひどくメンタルをやられた。それはそれはもう、「悲劇のヒロイン」状態だった。今思うと、本当に恥ずかしくなるくらい。
別に再手術のことなんて、昔から知っていたはずなのに、あの時は何故か、すごくショックだったのだ。
神様なんて信じても、私は普通にはなれない。
だからもう、私は神様を信じない。そこまで思った。

でも、「しにたくない」とか「どうか無事でいてほしい・ありたい」とか、そしてここまできても「普通になりたい」とか、祈ってしまうのだ。信じないと言ったくせに祈ってしまう矛盾も、この頃は特に許せなかった。

この時も、この時に限らなくても、つらいとき、救ってくれたのは人だった。
いつもどおりに接してくれる人。優しい言葉を、明るくかけてくれる人。一緒に泣いてくれた人。楽しい気持ちにさせてくれる人。笑顔で癒やしてくれる人。
世の中には、傷つける人もいる。嫌な人もいる。でも、あたたかい人もたくさんいる。良くない面ばかりじゃないんだと思う。
だから大丈夫だと思う。

一方で、神様というか、不思議な力というか、そういうものもやっぱりあると思う。
あの日ここに行っていなかったら、この時この行動をしていなかったら、今の私はいない。この人と出会えていない。この場所にいないはずだった。
そういうこともいっぱいある。良くも悪くも。
それは不思議なことだと感じる。自分の力・周りの人のおかげ、というのももちろんあるけど、それだけじゃない何かを、感じることもある。ご縁とかは、特に。

「私も頑張るので、少し力を貸してください。お願いします」って祈ること、「ありがとうございます」って想うこと。私は、そういう付き合いをしていきたい。

いちばんは、自分を信じたい。いちばんは、私の周りの、好きだと思う・大事だと思う人や物を、大切にしたい。時には頼っていきたい。
葛藤して、泣いて、悩んで、怒って、その先でいつかは受け容れたい。笑いたい。生きていきたい。
私は、そう思います。

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