見出し画像

音楽と文学と写真と

喪(うしな)うという感覚は、大人になった今よりも子供の頃にずっと頻繁に感じていて、「未来ある若者のはずなのに、なんで私はあんなに喪失感ばかり感じていたんだろう」と不思議だったけれど、過ぎていく時間や留め置くことのできない時間の無常さ(そして無情さ)に抗えない無力感が、あの喪失感の正体だったように思います。

喪ってから気付くんじゃなく、もう既に予感で解っていたから、美しいものを見ると哀しくなってた。

美しいものを見たとき、どうかこの幸せが少しでも長く続きますように、という祈りが生まれる背景には、いつかこの幸せが消えてなくなってしまうという喪失の予感があるからだろうと、私は心に留めています。


宇多田ヒカルのOne Last Kissの歌詞にあるように、
もういっぱいあるけど
もう一つ増やしましょう
という気持ちで、美しいものを見ている。そういう子供だったのでしょう。

大人になり、社会で生きていくためには多少鈍感になったけどね。
(それはそれで悪くないけどね)


昨晩、上田義彦氏の『椿の庭』という写真集が手元に届きました。

本当は映画も見たかったのですが、近隣では上映がなく、写真集を購入した次第です。

映画を観ずに写真集だけで映画の世界観を解釈できるのか、自分自身の感受性に一抹の不安はありましたが、この写真集、ただただ美しかったのです。完璧に美しかった。

でも、いつかはこの美しい時間が喪われるという暗喩があったおかげで、私は喪失の予感に耐えることができた。

その暗喩がなければ耐えられないくらい、本当に美しいのです。登場人物の生き方や、映し出される季節が。


最近読んだ『NHK100分で名著 松尾芭蕉 おくのほそ道』という本に、「不易流行」という言葉がありました。

不易とは、時が流れても変わらないもの。流行とは、時と共に移ろい、巡るものの意。

美しく均衡を保った時間は宇宙の時間の流れからしたらほんの一瞬で、それは一葉の写真、一句の俳句が切り取る時間や情景とよく似ているように思います。

『椿の庭』は、上田義彦氏が現実の世界から気づきを経てイメージの世界を具現化した作品ですが、それは芭蕉の句の構成や世界観ともよく似ている気がしました。


そして、(うまくは説明できないのだけれど)濱田英明氏が『ひろがるしゃしん』のnoteで言葉にしようとされているあたらしい「透明感」という概念は、不易流行に対するまなざしであり、芭蕉の言う「かるみ」なのではないかと、勝手に想像しているのです。

何十億年という宇宙の時間の流れから見れば、人間は陽炎のように消えてしまう儚い存在です。
悠久の宇宙と比べれば、人は一瞬で消えてなくなってしまう。

出会いと別れ、生と死、抗えない時間の流れの中で、それでも生きていく希望を見出そうとして芭蕉が行き着いた先が「かるみ」でした。

おそらく、愛も喪失も経験して咀嚼し、それでも自分が存在する意味を模索しているうちにたどり着く先が「かるみ」なのではないでしょうか。

他者の思考回路や感情や信条への共感にとどまらず、自分の存在も他者の存在もフラットに認め合える、存在そのものの肯定が「かるみ」のように私には思えます。


儚さゆえに美しくて哀しい、けれど、人生は続いていく。

『椿の庭』は、流行の中に見出した美を丁寧に掬い取り、愛し、心から慈しむ人たちの物語だったように思います。