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本質と共鳴する空間 その神秘

短い間だが、美術を学んでいたことがある。
当然「一流に触れること」が学びの一環であり
たくさんの美術館に通い、相当数の作品を鑑賞した。

今はリニューアルして、名前も変わってしまったが
当時お気に入りの美術館があり、
一人でも何度も足を運んだ。

建築も素晴らしく、
カフェの紅茶もとても美味しかった。
一人でも、ほんとうに楽しめた。

なぜ、あの美術館が飛びぬけて好きだったのか。

常設展示で愛していた作品は一点だけだ。

展示作品ではなく
時空間が好きだったのだとわかる。

当時の私が求めるものが
あの時空間には存在していたのだ。

その美術館や併設するカフェは、
ほんの短い時間の滞在でも
本当にリフレッシュできて、
帰り道では見慣れた景色が変わって見えることすらあった。

また、土地との縁というものもあるのだろう。
大学時代からずっと何かと縁のある、
思い出がたくさんある場所なのだ。

そのたくさんの思い出の中には
もちろん、楽しいことが全てではない。
悲しいこと、つらいこと、
本当にいろいろなことが起こった。

それでもなお、今もその場所、時空間が一貫して本当に大好きでたまらない。

他の嫌な思い出のある場所のように、できれば行きたくない。
足が遠のくということがまったくおこらない。

とにかくいるだけで嬉しくなるのだ。
どこに行くにも
少しぐらいの時間のロスなら
必ずそのターミナル駅を使う。

理屈抜きで好きでたまらない存在、
自分の本質が求めている空間、もの、人からは
有形無形の恵みがもたらされ、
それらに内在する力は、
自分の中の良質をごく自然に引き出してくれるのだ。

それらはすべて、自分の本質と深いところで親和性があり、調和する性質をもつ。

人であれば、双方にとってほんとうに自然体でいい関係が続く。

そのような場や空間やもの、ひとを見つけるのは、
難しいことではなく
実は見極めは極めて簡単だと感じる。

単純に、無条件で惹きつけられるか。
好きかどうか、だけである。

好き嫌いは子供っぽいとか、
感情的で幼稚だとかいわれがちだが
その直観が最も本能的で正確なのだ。
第一印象の正確さを超えることがあるのだろうか?

感性が正常であれば、要不要は即座に判断できる。

関わることに無理をかんじるのなら、何かが不調和なのだ。
違和感は正確なセンサーだ。
場でも人でも「自分とは」いい組み合わせではないということだ。
そしてほとんどの場合、それはその対象も同様なのだ。
場も人も、相性というか
「組み合わせ」次第なところがあるのではないのか?

自然に双方の良質を引き出す組み合わせ、

なぜか、そんなつもりはなくても、
その反対の質を引き出してしまう組み合わせ

これは理屈ではない。

本質の気、エネルギーが調和しないものに無理に関わるならば、
どちらかが、あるいは双方が自分の本質、
その本質的なエネルギーを歪めてつきあわなくてはならない。

場であれば、必要がなければなるべく足を運ばない。

ひとであれば、そっと距離を置く。

わたしは、それが真の尊重だとおもうのだ。

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