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【TSUGIHO】 第2号-帰郷-


"帰郷“という言葉を自分事として語ることができるのは、生まれ育った土地から離れた場所で一定の期間を生活している人に限られる。進学のため、就職のため、夢を追いかけて実家を出て、都会で過ごす人たちがそれである。

ご存知のとおり、江戸時代以前の日本においては幕藩体制が敷かれていたので、自発的に生家を離れて生活をしていた人の割合は極めて低かったのではないだろうか。

小生が考える1回目の転機はブラジルへの移民が始まった1908年だ。苦しい生活から抜け出したい一心で、あるいは一旗上げようと甘い謳い文句に誘われた人たちは、海を渡り、異国の地で予想外の過酷な労働を強いられた。兎追いしで始まる唱歌「ふるさと」が作られたのは1914年とのこと。地球の反対側にも伝わり、故郷を思って歌われていたのではないだろうか。歌は世に連れ、世は歌に連れである。

ちなみにふるさとがテーマになっている歌で最もポピュラーなのは誰が何と言っても千昌夫の「北国の春」である。白樺、青空、南風で始まるこの歌は何を隠そう小生が人生で初めてカラオケで歌った曲なのである。あの故郷へ帰ろかな帰ろかなで締めくくられるこの名曲、必ず聞いてもらいたい。

ところで千昌夫といえば奥様が外国人ということでも有名で、梅宮辰夫、西川きよし、と合わせて、外国人を妻にした3大巨頭と言われている。(田尾安志、ヒデとロザンナのヒデを加えて5人衆と呼ぶこともある。)(大鶴義丹、川崎麻世も足せば七人の侍である。)


得意の寄り道はこのくらいにして。

次の転機は1930年代の集団就職であろうと小生は考える。地方の農家の子供達が職を求めて都会に出て一般市民となる。生活はそれまでと一変する。第二次世界大戦で中断した集団就職は戦後に再開され、高度経済成長の流れにうまく乗れた者もいれば、そうはいかなかった者も少なくないはず。

こんなはずじゃなかった。このままでは帰れない。だからこそ皮肉にも"帰郷“という言葉が市民権を得て、そんな若者のこころに「ふるさと」は沁みた。

さて、現代においての帰郷はどうであろうか。地元を離れることに対する制約は皆無に等しく、都会へ出たにせよ、交通は発達しているのですぐに地元に帰ることができる。ましてやテレワークの時代、都会に居る必要性は低下し、ネット環境や通信販売があるので地方でも十分に暮らしていける。

このように、帰郷という言葉に抱く思いや感情は、時代や出身地、家族環境などによって大きく異なるはずである。今回のテーマである"帰郷“に対して各執筆者たちが吐き出すものは果たして。


エッセイ:ノカヤク(@kansoukyabetsu
インタビュー:たつま(@tatsumamustat
特集:シャーク鮫くん(@lno_glK
小説:chicagocoffeee(@abovethesea2
フォトエッセイ:セキヤ(@sekiyanabemotsu)前書き・後書き:OC-3(@oshiteoku

《夕凪は燃えさしのニコチアナ》

年末の空港は人で溢れていた。慣れない人混みをかき分けて、なんとか出発時刻ぎりぎりに搭乗した。同行者のQは涼しい顔をしてこのバタバタを当たり前に受け入れているように見えた。予定のない私は、数年ぶりに里帰りするという、Qに同行して見知らぬ土地へ行くことになった。

六時間ぐらいで現地の空港に到着した。年末だというのに春の日のような暖かさだった。「電車に乗るよ」と言われて駅に向かった。駅の待合所は少年野球くらいならできるのではないかという程広く、ずらりと等間隔にベンチが並んでいた。電車、と言われたがホームにはどうみても新幹線らしき乗り物がやってきた。気づけば私は窓際の席に座りぼんやりと外を眺めていた。簡素な農園が続いていた。隣を見るとQは通路側席の女性とバラエティ番組を観ていた。初対面だったが同年代らしく話が弾んでいるようだった。途中で通路側席の人が降りる時、Qとその女性はお互いに、「バイバイ」と手を振り合って、連絡先を交換することもなく別れた。一期一会とはこういうことをいうのかなと思った。二時間もしないうちに目的の駅に到着した。模型のようなコンクリートの大きな駅だった。実物を小さくしたものが模型なのかもしれないが、私達二人だけしかいない大きな駅はそのように思えた。辺りはすっかり暗くなっていた。

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