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子どものころ、自分が村から出て都会で働くことを疑いもしなかった話。

こんばんは。土屋です。

前回までとは色を変えて、昔の話をしてみようと思います。

タイトルの通り、私、たぶん高校卒業するまで、いや、たぶん大学3年生の前半くらいまでは、自分が都会で働くということを疑いもしなかったんですよね。

現在は五木村に住み、五木村で働いているのですがそんなことになるなんて1ミリも思っていませんでした。自分はきっと、熊本市内か福岡あたりで働くんだろうなーと思っていました。

五木村で働かないと思っていた理由

たぶんそれっていくつかの理由がかさなっているからだと思います。

①親の願い

私の親は我が子が幸せに暮らし生きていくことを何よりも願います。私は相当可愛がられて甘やかされて育ったタイプの人間だと思います。

父は土建業、母は事務、たまに林業の仕事にいく祖父と祖母、3つ上の兄ちゃん(あんちゃんと呼んでました。)と暮らしていました。

私はよく母から「将来は熊本市内とか福岡で働けたらいいねえ」と言われていました。それを
聞いた私は、「なるほど、そっちの方がお母さんが喜んでくれるのであればそうしたいなあ」と思っていました。

やっぱり親は、「この村にいるよりも都会に出た方が幸せだ」と思ってたんだと思います。都会に出た方が、仕事もたくさんあるし、まわりの友達もきっと都会に出るだろうし、きっと我が子にとってはそれが幸せなのだろうと。そういう願いから、幼少期の私に両親はそういう声かけをしてくれていたんだと思います。

②そしてその影響力

この世には本当にいろんな選択肢があるし、親から言われたことが全てではない、ということは今だからこそ思いますが、当時は「じゃあ、そうしよ。」としか思えないものです。
例え親がたくさんの選択肢を提案してくれていたとしても、その中から何を選べば正解なのか
わからない。たぶん、そんなことされたとしても、「お母さんはどれがいいと思う?」と幼き頃の私は聞いていたと思います。

今でこそ正解などない、なんて思いますが、当時はテストで100点採ることが日々の目標なのですから、ついつい正解を探してしまいます。

だから、親から言われたことってけっこう覚えてるし、本人も自覚しないところで強く影響してたりするもんですよね。

③確かに帰ってきている人は少ない

中学生くらいの頃に気付いたのですが、確かに、ちっちゃい頃に一緒に遊んでくれていた10歳上の兄ちゃんとか、帰ってきてないんですよ。もう2年会ってないなーとか、あるあるでした。そうか、福岡で働いてるのか、そしたらしばらくは会えないなあ、ちょっと寂しいなあとか思ったりしてました。

それと同時に思ってたのが、「あー、じゃあ私も10年後には五木村にいないのかあ」そして、「まあそれが普通か。」の2つです。

他にもいろいろありますが、だいたいそんなことが重なって「私は将来五木村を出て、熊本市内か福岡で働くんだ」と思ってました。

その上で今思うこと

自分の人生なんて自分で決めるのが1番だし、五木村で生まれ育った人が全員五木村に帰ってきて暮らすのが正解だなんてことは1ミリも思いません。

ただ、五木村で働くとか、暮らすという選択肢が、少しずつでも子どもたちの中で芽生えていくといいなあとは思います。

その選択肢が魅力的だったら、行きたいって自発的に思えるだろうし、ほかの選択肢と比べても魅力的にするのが私の仕事でもあると思います。

そんで、保護者の皆様が「まあ五木村に帰ってくるっていうのもあるはあるよ」って子どもたちに言っていただけるような気運は作っていけたらなと思っています。

そんなことできるの本当に先の話だろうし、本当にできるかどうかなんてわかりませんが、私の目標の一つです。

保護者の方々が子供に勧める選択肢の一つにも入っていくと良いなあと、心から思っています。

明日も仕事がんばろう。

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