インタビュー調査<四方田隆氏>

 1959年生まれの四方田隆氏は、学生時代は父親の仕事の影響で転校を繰り返していた。大学への推薦を決めるくじ引きで負けた四方田氏は、慶応義塾大学法学部政治学科に進学、国際政治を学ぶために石川忠雄ゼミに所属した。新聞記者志望だったが、『週刊文春』アルバイトで出会った立花隆氏の助言により、雑誌記者を志すようになる。結局、就職試験の時期が早かった新潮社に合格し1982年に入社。
 入社後は『週刊新潮』編集部に配属となる。特集記事の「兵隊さん」として奮闘する傍ら、作家担当、コラム担当としても奔走した。当時の雰囲気について、「ノンフィクション全盛で雑誌全盛の頃だから活気があった。新聞に負けない気概があった。…活気はあったけど怖かったよ」と語る。また、当時の仕事について、「常に新しい事件や情報がどんどん舞い込んでくること(が原動力になっている)。同じことの繰り返しではないわけだから。疲れちゃうけど面白い。専門はないんですよ。今週は政治、来週は経済、次は芸能…と色んなジャンルをやれるのが新鮮」と語る。休みは水木の週休二日制だったが、翌週の取材の準備に充てていたために毎日働き詰めだったという。
 1991年には、政治コラム担当の経験から『週刊新潮』編集部デスクに抜擢される。さらに、毎週の記事という実績の積み重ねにより、1998年には『週刊新潮』副編集長に就任する。仕事をする上で大事にしてきたことは「信用」だという。取材対象に会う時、政治家秘書から情報を貰う時、担当作家と仲良くなる時、身なりや第一印象から気を遣ってきたという。
 2009年には、「ずっと『週刊新潮』にいると思っていたのに」、雑誌の広告収入の減少を立て直すために広告部に異動となり、副部長に就任し、翌2010年には部長に就任。リーマンショックの余波で出版各社が広告費を軒並み下げる中、新潮社の下げ幅を他社より小さく食い止めた。
 また、「週刊誌というものが社会にとって必要性が薄れている」中で、「週刊誌は信頼度と、必要性、価値の創造がなければダメ」と持論を展開した。

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インタビュー担当者:古澤雅人(主担当)、荻野結衣(副担当)