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インタビュー調査<磯貝喜兵衛氏>

 磯貝喜兵衛氏は1929年大阪市に生まれた。1939年に第二次世界大戦が始まった時、1941年に太平洋戦争が始まった時を鮮明に記憶している。戦中には軍需工場に働きに行かされた。そこで、初めて敵国の米兵を見てショックを受けた。1945年の旧制中学校を卒業するわずか20日前に大阪大空襲を体験。戦後、父親が蚊帳の工場を復興するのを手伝いながら、もう一度勉学の道を志す。1950年に慶応義塾大学文学部に入学。戦時中の号外や高校新聞、慶應の新聞研究部の経験を経て、卒業後1954年に毎日新聞社に入社。
 初任地の徳島支局では「いきなり実際の取材を叩き込まれて」、最初は「自分の社の先輩よりも他所の社の人に教わることが多かった」という。紫雲丸の衝突事故があり、犠牲者名簿の作成を徹夜で行う。その後、大阪本部で東部方面を担当、「要するにサツ回りは社会部記者の第一歩です」。その後伊勢湾台風を取材。社会部の遊軍になってからは、1961年の釜ヶ崎騒動事件を取材、警察による容疑者への暴力事件をスクープした。
 1963年に東京本社社会部に異動、東京オリンピック担当になる。その年の11月9日には、大きな事件が三つも重なるという「血塗られた土曜日」にも遭遇。1964年のオリンピック本番では、選手村担当としてバラエティー豊かな特ダネを記事にした。
 翌年最高裁判所・検察庁の担当に、1966年には防衛庁の担当になる。同年には海上自衛隊の練習艦隊に同行し、「小笠原諸島返還が近い」とのトップ記事をものにする。1968年には、佐世保エンタープライズの取材で、艦載機に乗り、胴体着陸で危機一髪を体験する。その後、大阪社会部副部長になり、さらに阪神支部長、京都支局長を歴任。
 1983年、54歳の時に毎日新聞社を退社し、毎日映画社の社長に就任する。バブルの時代でもあり、業績は好調だったという。その後、1993年に社長を退任し、翌年には慶應義塾大学で三田マスコミ塾を開設し、約20年続けた。