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インタビュー調査<横内房寿氏>

 1946年生まれの横内氏は、諏訪清陵高校から信州大学を経て、1970年信濃毎日新聞社に入社した。マスコミを志した原点には本多勝一や大森実の存在があったという。
 入社後は整理部に配属されたが、強い希望により一年で報道部に異動。次いで上田支社に異動、あさま山荘事件のサポート取材に入った。東京紙との取材合戦で抜かれ「長野本社のデスクからは毎日『お前ら何やってんだ』と怒られ」苦労したという。四年後、東京支社へ異動。赴任当日に三菱重工本社爆破事件が起き現場に駆けつけ取材。また、中央省庁に取材して長野県絡みの記事を書き送る中で、農林大臣の発言で特ダネ記事を書いたりした。
 三年後、長野本社報道部の経済担当となり、減反問題の他、御嶽山噴火(1979年)ではその第一報を書いた。次いで飯田支社に異動、地元の清流を埋める県の計画を記事で阻止し、住民から感謝された。「ペンの力が生きた事例として印象が強い」と語る。
1985年長野本社報道部の社会・県政キャップに就任。すぐ地附山地すべりが発生し取材を指揮。一息ついたところに御巣鷹山の日航機墜落事故が起きた。「私の記者人生の中で、立て続けに起きたこの二つの出来事は強烈な印象」と語る。
 報道部デスクで紙面作りに入った後、松本本社で報道課長に就任。足かけ四年の大型企画「北アルプス」の連載を始めた。みたび長野本社に戻り、報道部次長となる。1994年松本サリン事件が発生、最初に社会面で掲載して失敗。1995年論説委員になり、長野五輪に関する社説を書いたり、中南米の取材にも取り組んだ。2000年に伊那支社長に就任、「地域密着の地元の新聞」として企画を数々実施した。2006年読者センター長となり、NIEなど新聞の普及活動に尽力。2007年定年退職後は週刊長野新聞社で、フリーペーパーの編集長を務めながら、著作を出版し、大学の非常勤講師を務めたり、精力的な活動を行った。