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インタビュー調査<笹田治人氏>

 浜谷惇氏は1940年、朝鮮〔現韓国大田(テジョン)〕生まれ。1944年に親の郷里であった山口県の周防大島へ戻り、そのまま敗戦を迎えた。高校卒業後、浪人生活を経て法政大学に入学。当時から社会党右派の江田三郎が説く「江田ビジョン」や「構造改革論」に関心を持っていたと言う。
 1965年に『社会新報』編集部に入局。校閲を担当した後、1968年には北信越総局へ出向。『社会新報』北信越ブロック版の編集体制の整備に関わる。しかし突然の命令で1969年の春に本部へ戻る。
 1970年から編集長に就任した中原博次氏の下で機関紙作りの面白さを学ぶ。「派閥の論理」ではなく「仕事の論理」を重要視する中原氏に深く共感し、中原氏のアドバイスを基に、議員と協力して記事を書くという取材方式を確立させる。また、中原編集長は『社会新報』主催のボウリング大会や囲碁大会など「話題作りを次々と仕掛けていくようなアイデア…、それをまた実行させる力を持っていた…本当に凄い人だった」と振り返る。
 しかし1973年に大塚俊雄氏が編集長に就任すると状況が一変する。中原氏の編集方針は全否定され、『社会新報』は向坂逸郎を中心とした社会主義協会の影響を強く受けるようになる。1977年に党教宣局を兼務し、記者クラブ対応を担当。
1978年に『社会新報』から地方政治局に異動、月刊誌『地方政治』の編集長を務め、地方自治体議員団会議のヨーロッパ視察に同行もした。
 1981年には社会党政策審議会に異動。与野党双方の立場から政策立案を経験し、与野党の情報格差の大きさを痛感する。1996年に社会党中央本部を退職し、社団法人平和経済計画会議に移った。
 『社会新報』の編集と経営は元々党から独立しており、それゆえ「党に直結した広報・宣伝紙ではなく、社会党的な新聞」であり、編集にかなり自由度が認められていたと浜谷氏は述べ、「社会党的な多様な考え方を表明できる場」そして、「社会党に足らざる所、つまり提言とか批判とか含めて意見を貰う場」として紙面を提供してきたと語った。