見出し画像

インタビュー調査<大住広人氏>

 大住広人氏は1937年に北海道常呂郡置戸町で生まれた。小中学生の時が敗戦とGHQの占領期だったが、北見では占領の影響を比較的受けずに過ごしたという。1956年に北見北斗高校を卒業後、一年間の浪人生活を経て1957年に都立大学法律経済学部経済学科に入学。写真部の活動やアルバイトに精を出す学生生活を過ごす。
 1961年に毎日新聞社に入社。写真部に配属され、先輩の背中を見て写真記者の仕事を学ぶ。1965年に社会部八王子駐在へ異動。生涯の師匠となる平野正夫氏と出会い、記者活動における「換骨奪胎の術」を教わる。1966年にサツ回りに行った後、都庁クラブに配属。1971年には社会部西支局へ異動し、東京都のゴミ問題に関する取材に力を入れる。1972年には郵政クラブを担当、その傍らで『ゴミ戦争』を出版した。
 1975年には労働組合本執行委員長に就任。『毎日新聞』再建闘争の指揮を務めるだけでなく、1971年の西山事件を盾に「押し紙」の切り落としに励んだ。労働者の保護と会社の存続の間で板挟みになり、それらを総括しなくてはならない委員長時代は「結構孤独だった」という。
 1978年に社会部都内版デスク、1979年に社会部東支局長、1980年からは社会部西支局長を兼任し、管理職として個性豊かな『毎日』記者を取りまとめた。
 1984年から社会部編集委員として「記者の目」デスクを担当し、掲載記事の選定に務める。1985年に読者室委員、1986年に編集室編集委員を担当する中で、1980年代から「世の中から自由さがなくなっていって、管理社会、そして格差社会が定着してい」ったと振り返る。1990年に紙面審査委員会幹事を兼務、1991年には紙面審査委員会副院長に就任し、新聞報道における容疑者呼称問題に取り組む。
 1992年に編集局編集委員を経て選択定年退職。その後は執筆活動を通してジャーナリズムとの関わりを保つ。今後の新聞記者や新聞の在り方について、新聞記者は、戦後日本の社会に影響を与えている「アメリカと真正面から向き合う」ことが必要だという。また、世の中の出来事に対して「共感し合い、考え合う」、「そしてそこで働く記者たちの良心、自由をしっかり守る新聞」であるべきだと語った。