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インタビュー調査<白石喜和氏>

 白石喜和氏は1942年東京で八人兄弟の末っ子として生まれた。戦中に父親が病死、空襲で兄と自宅を失い、母が子供を育てた。小石川高校に学び、安保闘争のデモを経験。中央大学法学部法律学科入学後には、新聞部での活動に注力する一方、部長として、バリケード封鎖を解く交渉の立会人にもなった。
 1967年に読売新聞社大阪本社に入社し、初任地の岡山支局でチェコ事件のスクープで表彰される。プラハの春が結局暴力で潰された時、「ああ、戦争ってのは、本当に関係ない無辜の市民を次々に犠牲にしていくんだなあ」と痛感する。
 1970年には大阪社会部へ異動。公害をはじめ、高度成長期の歪みが噴き出たような事件を報道する一方で、司馬遼太郎や宮城まり子との出会いの中で、新聞記者としての生き方を考えさせられることになる。1976年には黒田清社会部長の下で「男」などの連載を開始、「読者と一体になって取材する」スタイルを新しく展開した。1983年に日本でのアウシュビッツ展の開催に尽力し、翌年にはポーランドでのヒロシマ・ナガサキ展の開催を成功させた。この間に知ったポーランドと日本の知られざる歴史を基に、1987年には『鉄条網を越えてきた女』という推理小説を上梓し、横溝正史賞の佳作賞となった。
 1993年からは1年ごとに、神戸総局長、文化事業部長、地方部長、社会部長を務めたが、阪神淡路大震災の時には文化事業部長としてボランティアや義援金の募集などを精力的に行い、被災者の援助に尽力した。
 様々な戦争関係の取材を基に、2013年には『振りむけば戦争があった』を、2015年には『振りむけば明日が見える 事件記者の現場半世紀の日本』を出版し、その記録を残した。昨今の報道に関しては、「ネットを通したりして聞いている分には、なかなか生の感情というのは伝わってこない」と言い、「記者が目と耳と足で事実を確かめて、直接当事者に話を聞いて。それが、歴史がどんな風に変わろうと新聞記者の鉄則だ」と語った。