見出し画像

インタビュー調査<中島健一郎氏>

中島健一郎氏

 1944年に東京都で生まれた中島健一郎氏は、「活字の虫」と言われる程の読書好きだった。日比谷高校では雑誌部編集長を務め雑誌の回収・修正事件も経験。金儲けに関わらない仕事として新聞記者を目指し、東京大学文学部社会学科へ進学する。在学中は美術サークルで前衛芸術の活動に没頭。60年の安保闘争報道以降読み続けていた毎日新聞社のみを試験を受けて入社した。
 1968年入社後に長野支局へ配属。電話での原稿取りや写真の現像方法など取材の基礎を学んだ。また、浅間山荘事件では身体を張った取材で独自の情報を入手。聞き取った被害者の声を原稿に書き上げ報道した。1972年4月に社会部に異動。サツ回りを一ヶ月間経験した後、警視庁を四年間担当。1976年3月ロッキード事件取材班に加わり、21億円の領収書の解明や、小佐野賢治への単独インタビューの実現などで貢献した。1979年からは脱税事件を追求。1981年2月ワシントン特派員となる。グレナダ侵攻では、日本人で唯一現地取材を続行。その体験は著書『もうひとつの顔―事件記者のみたアメリカの仮面と牙』(1986年)として刊行された。1985年4月から三ヶ月間宮内庁担当を経て、警視庁キャップ、社会部デスクを務める。日本航空123便墜落事故やロス疑惑など重大事件を数多く担当した。1989年8月に外信部、1991年8月にはワシントン支局長に赴任し、ソ連崩壊から冷戦の終結までを取材した。1994年4月に社会部長となり、オウム真理教事件などを担当。1997年4月編集局次長となり、1998年6月英文毎日局長に就任。2006年に毎日新聞社を退社した。
 ジャーナリズムは「一般の人たちが分からない裏の事情とか、裏の真相とかを見せてあげるのが一つの重大な使命」と述べ、「フォローアップの質問ができない」現在の記者会見を批判。記者は変な先入観や憶測によるのではなく、自由に取材して「自分の見たこと、取材したことで記事を組み立て」るべきだと語った。