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インタビュー調査<澁澤重和氏>

 1939年東京都大森区(現大田区)で生まれる。海軍に召集された父親と一緒に青森県大湊市に移住し、終戦を迎える。小中学生時代は長野県で過ごし、中学三年生の時に東京へ引っ越し、高校は東京都立第五商業高校に通う。一浪して東京外語大学へ入学。アルバイトで学費を払いながら学生運動にも参加。東芝に就職する予定であったが、学生運動の件で白紙に。マスコミ各社の入社試験を研究し「毎日新聞社が一番入りやすい」と考え、1963年に毎日新聞社に入社した。
 最初の浦和支局に約五年間勤務した後、社会部に配属。一方面、六方面のサツ回りを経験した後、1969年8月警視庁二課担当に異動。汚職事件を取材するには、担当する刑事の住所を探ることから始まり、中心に取り扱う中で、事件の情報をいち早くかぎつけるためにも「仲間のチームワークを上手く作るということが非常に重要」だったという。「僕の新聞記者生活の原点は警視庁だった。原点もそうだったし、新聞記者生活の全てがあると思う。
 1972年社会部遊軍に異動。「教室」シリーズなど、企画物を多く手掛けた。1976年のロッキード事では、当時の社内外の状況を克明に記録、それが取材の足跡を再現する元となり、全取材の様子が『毎日新聞ロッキード取材全行動』(1978)にまとめられた。1978年には国鉄を取材する「ときわ俱楽部」担当、1979年にサブデスクを経験し、遊軍長を経て、1981年社会部副部長となる。「社会部は文章が上手い記者がいないと困る。」と文章が書ける記者の発掘を心がけた。
 1986年論説委員に就任後は、教育問題を除く社会問題全般に関する論説を、ほとんど一人で書き上げていたという。1995年毎日新聞社を退社、昭和女子大学教授に着任となり、「義援金とマスメディアの関係」や各国のマスメディアの現状を論文に書くために、様々な国へ赴いた。
 現在の新聞は特ダネを掴み切れていないと述べ、「情報が人間の生活にとって不可欠だという大原則が崩壊しない限りは新聞社の役割、それを支える新聞記者の役割は不変だと思う」と締めくくった。