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DEAN or DELUKAの時代に

今朝、娘を小学校に送っていった。

「なんでパパの肘って、そんなに白くてシワシワなの?」
「......それはね、おじさんだからじゃないかな」
「ふうん」
「ま、クリームとか塗るとマシになるんだろうけど、もう塗り始めたら全身塗らないといけなくなるしさ、あとそんなおじさんって」
「あ、見て、セミの抜け殻!」

今日から41歳が始まった。
東京駅から少し歩いた、朝のDEEN&DELUKAで41歳誕生日ブログを書いている。

本日付で41歳に着任しました。
新たな気分になるかと思って、久しぶりに異動のある会社員っぽい表現を使ってみたけど、まだ小雨の止む気配はない。

取材対象者がいるRallysの記事は別として、自分のブログには、本当に感慨のようなことしか書けない。

そのことをずいぶん無力に感じてキーボードを打つ手が止まる数ヶ月だった。

一つには今、世界中が感傷的であり、そしてその種の感傷が世界を全く救っていないということを、文字通り世界中が自覚しているからだ。
一文に3個の「世界」だ。
DEENの世界とDELUKAの世界を合わせても、まだもう一つだ。

「スポーツ」と「演劇」。
私がこの41年の大半を費やしてきた、この二つの営みに関わる人たちが大きく揺れている。

「ライブエンターテイメント産業」であるという共通点もある。
そんな共通点、こんな状況になるまで思いもしなかったけど。

政治的に見れば、この二つの産業の振興は「なくても成立はするけれど、人によってはあった方が楽しいもの」を「現代社会における生活や経済成長のために万人になくてならないもの」に位置付けていく政治活動だったとも言える。

今、アスリートや俳優の言葉が少しずつ窮屈に、貧しいものになっているように感じるのは、社会とエンターテインメントの定義が変わっているからだ。

たぶん、万人を目指さない方向になるのだろうし、そのとき、これまで掲げてきた社会的意義では、共感を得られないし、予算も獲得できない。

その世界は、もうDEAN & DELUKA &...を目指すものではなくて、DEAN or DELUKA or ...に各業種がダウンサイジングしていくが、にも関わらず三密だという理由で狭くて小さな場所のビジネスがむしろハイリスクで人の足が遠のくとき、いったい何から始めて良いやらと途方に暮れている、というのが、とりわけライブエンタテイメント産業に漂う徒労感の正体だと思う。

そして、41歳には途方に暮れる時間もない。
とりわけスタートアップ企業に「途方に暮れる」という選択肢はないのだ。

「働き盛りだね」という謎のお祝いLINEも後期高齢者の親から来たところで、氷の溶けきったアイスコーヒーを飲み始めて、仕事に戻る。

でも、やれることはある。
「生産性」を考えると立ち止まってしまうが、演劇も卓球も「誰に頼まれたわけでなし、ただ自分がどうしてもやりたいことだった」という原点に立ち戻れば、少なくとも今日、来週やれることは明確になる。

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