自己紹介

こんにちは、アメブロで「すっぴんマスター」というブログを運営しているツッキーニと申します。
ふだんは小説などの書評と、闇金ウシジマくんやバキシリーズの毎週の感想など書いています。

ブログを書き始めてからは今年(2018年)で11年になります。
それ以前から、文芸誌の新人賞に小説を投稿したりして、文章を書くという行為は続けていましたが、最高でも二次選考、まったく結果が出ないものですから、ちょっと視点を変えてみようと、よく知らないインターネットの世界で書評などはじめてみたのでした。
当時のわたくしは、天才とはいわないまでも、じぶんのことをそれなりに才能のある人間だと考えていました。いや、正直なところ、なんらかの入力のちがいで大きく表出していないだけで、たぶん天才だろうと考えていたのではないかとおもいます。小説を書こうとして、完成させるまでほとんど時間がかからなかったことも、そこに説得性を加えました。書こうとおもえばいくらでも書けるものですから、そういうのを才能といえば、たしかにわたくしには才能があったのかもしれません。しかしまったく評価がついてこない。身の回りにいる多少でも小説を読んだことがあるという人間に読ませてみても、よいとかわるいとかいう評価さえ得られませんでした。要するに、それらはなんだかよくわからないグロテスクなしろものだったのです。
そのことは、インターネットを通してのちに痛感することになりました。携帯電話なども特に最新機器であることにはこだわらず、理系にもかかわらずPCももっていないアナログ大学生だったわたくしは、インターネットというものにとてもうとく、「ブログ」という言葉も知りませんでした。当時好きだったあるアーティストがアメブロを開始していなければ、もしかしたらそれもなかったかもしれない、それくらい狭い世界で生きていました。自覚のない傲慢さを抱えたわたくしも、4本か5本、小説を投稿してみて、二次選考どまりであるという現実を受けて、さすがに、これはなにか大きな勘違いをしているのかもしれない、と大観するに至ったのです。
そうやってはじめてまともに接続したインターネットの世界には、おそろしい才能のひとたちがたくさんいたのでした。とりわけ批評の分野で、わたくしはじぶんの知見の狭さをつきつけられました。そのような読み方をしたことなどいちどもない、そういう斬新な読解をする批評が、世界にはあふれていたのです。
こんにちの、特にネット上でアマチュアが行う批評は、原則的に文章それじたいを自律したものとみなし、作者の存在をなるべく考慮しないようにするテクスト論が基本となっているようにおもえますが、じっさいにはそこまで厳密なものではなく、作者とテクスト両方の視点を行き来する、より自由な批評が行われています。ここで重要なことは、「批評者が文章から読み取ったこと」と「作者の意図」を無関係に扱うことが可能だ、というぶぶんです。批評するものが文章から受け取った深度にかんして、作者が意図していても、あるいは批評者の深読みに過ぎないのだとしても、批評としてはどちらでもいい、ということなのです。
批評の方法にかんして、わたくしは、直接的には加藤典洋から学びましたが、ともあれ、そうしたことを実践してみて、また長じていくにつれて、じぶんの書いていた小説がいかに稚拙であったかを思い知りました。ブログ運営の方針として、読んだ本にかんしては必ず批評を書く、ということを実行してきたので、それほど感銘を受けなかった小説にかんしても、じっくり読んでじっくり書く、ということをくりかえしてきたわけで、わたくしの書いたものが、わたくしがげんに実行している読みかたに耐えるほどの強度を備えているとはとてもおもえなかったのです。仮にメッセージのようなものがあったとしても、わたくしの小説からはテクスト論的読み方で豊かなものがまったく引き出せないのではないかと、こんなふうに感じられたのでした。それは、小説という枠組みで考えたとき、「へたくそ」ということなのではないかと。
そうして、インターネットを通じて広い視野を獲得し、ようやく、じぶんの作品を客観的に見ることができるようになったのですが、その結果としてわたくしは、小説がまったく書けなくなりました。というとこれも嘘で、厳密には書けるのですが、投稿したり、ひとに見せたりということが、まったくできなくなってしまったのです。
そのかわり、というわけではありませんが、批評のおもしろさを発見できたのは幸運でした。ここでまた、わたくしが本質的に抱えている傲慢さがあたまをもたげはじめ、じぶんは批評のほうが向いているのではないか、こちらでいったほうがなんらかの達成が得られるのではないか、などとおもうようにもなったのですが、もちろんそんなわけはありません。「批評」とみずから呼んでいくら格好つけても、それは決して学術的なものにはなりえないし、あくまで「それなりの読み物」を出ないものなのです。

ただ、そうした問題はもうあまり深く考えていません。いまのわたくしには、こうやって書いていくことがただ楽しい、という実感だけがあります。11年も続けているので、その点にかんしては向いているといってまちがいないでしょう。あくまで無料で公開しているブログでのこと、思いついたことをそのまま無責任にべらべら書いているだけですから、向いているもなにもないのでしょうが、少なくともそこでの蓄積にかんしては、それなりの誇りのようなものもあります。

ブログをお読みいただいているかたはご存知かとおもいますが、最近、わたくしは失職しました。むろん、無職になってしまったこと全体を無邪気に喜ぶことはできませんが、部分的には、これまでやりたかったけど(時間的に)できなかったことに、これではじめて挑戦できる、というようなところもあったのです。そうしたわけで、今回このようにnoteに登録してみたしだいです。

ブログをはじめる以前のわたくしがインターネットのことをまったく知らなかったように、現在のわたくしも、別にネットにくわしい人間ではありません。というか、端的にいって情弱です。ですから、文体から価格設定まで暗中模索であって、いろいろまちがってしまう可能性が高いです。この文体も、いつものブログでの文体とは大きく異なっています。ひとつには、ブログを書くときに、わたくしはあまり推敲をしないできました。時間がなかったからです。そのことが、ジャズの即興演奏がそうであるように、文章にある種の緊張感を加えてきました。けれども、そのぶん、誤字脱字が多かったり、途中から主語が変わっていたり、長すぎる文章のなかで論理が破綻していたり、わりとありえないミスを連発してきたのでした。noteでは、せっかくなのでそうした即興的要素を残しつつ、もう少し精密な構文に努めたいとおもっています。本稿はですます調になっていますが、普段はもっと偉そうな言葉遣いです。正直、そのあたりもどのようにしていくかまったく決めていません。そして、もっとも重要なことですが、わたくしの一人称は通常「僕」です。しかし、なぜか「わたくし」ではじめてしまったために、結果としてなにか懺悔調になってしまいました。僕かわたくしかでこんなに文章が変わってしまうとは、これまでまったく知らなかったことですが、こうしたぶぶんも、いろいろ試していきたいです。

どうしてこんなに文章が長くなってしまうのか、じぶんでもよくわからないのですが、とにかくわたくしの文章はいつもとても長いです。価格設定にかんして調べてみた結果、識者によれば文字数で決定するのがよいようなのですが、そうすると高くなってしまいます。量を価値とみるのであればそれでもいいのですが、そのあたりも決めかねています。おいおい安定していくとおもうので、それまでお待ちください。

そして内容ですが、ブログでメインとしてきた書評と週刊連載漫画の感想は、いままで通りブログで行います。こちらではより個人的な記事を書こうとおもっています。たとえば、文章の書き方、あるいは本の読み方、というようなことです。なぜなら、こうしたことには、逆にいえばブログ読者の大半は興味がないとおもわれるからです。これは、最近いろいろ試してみてわかってきました。ブログ読者は、言葉にしてみたら当然なのですが、ブログに書かれているものに用があるのであって、管理人には用がない。けれども、ごくまれに、わたくしに用事のあるかたもいらっしゃる。そういうところに応えていきたいです。とはいえ、note利用者の多くが記しているメソッド的なものは、はっきりいって書けません。そんなものはないからです。しかし、たとえばひらがなの使い方など、こだわっているところがないわけではない。そうしたことを、自己分析を含めて書いていこうかと考えています。よろしくお願いします。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が参加している募集

#自己紹介

229,891件

いつもありがとうございます。いただいたサポートで新しい本かプロテインを買います。