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和辻哲郎─日本人の探求に支えられた倫理学

日本回帰の原点─天心の講義「泰東巧芸史」

 明治四十三年四月から七月までの一学期間、岡倉天心は東京帝国大学で「泰東巧芸史」の題目で美術史の講義を行った。この講義に強烈な印象を受けたのが、当時一年生として聴講していた和辻哲郎である。

 天心は、奈良の薬師寺の三尊を見たことがない人がいたら、自分はその人をうらやむと言った。和辻らが呆気に取られていると、天心は三尊を初めて見たときの感銘を詳しく語った。後に和辻は「岡倉先生の思ひ出」と題して、「特に先生が力説したのはあの像の肌の滑らかさであったように思う。あの像もまた単に色や形をのみ見るのではなくして、まさしく触感を見るといふべきである」と振り返っている。京都に親戚がいたこともあり、和辻は中学時代から古都を訪ねてはいたが、天心の講義を受けて以来、古都への関心を強め、度々古寺を訪ねるようになった。

 天心は講義の中で、日本美術に対するアジア諸国の影響について語り、法隆寺金堂壁画侍菩薩とインドのアジャンタ石窟壁画「蓮華手菩薩像」の類似性について強調したに違いない。その八年前、天心はアジャンタを訪れ、「蓮華手菩薩像」を観察していた。大きな波形の連眉、切れ長の目、引き締まった口。ややうつむきかげんで、右手に青い蓮華を持つ蓮華手菩薩像。これを見た瞬間、天心は即座に法隆寺金堂壁画侍菩薩との類似を見出し、「アジャンタの石窟は六、七世紀の壁画ありて、法隆寺金堂のとは其形式毫も異ならず」と報告していた。

 大正七年五月、和辻は友人とともに奈良付近の古寺を訪ね歩いた。このときの印象をまとめたのが、彼の日本回帰を決定づける『古寺巡礼』(大正八年)である。同書の冒頭には、「昨夜出発の前のわずかな時間に、Z君の所でアジャンター壁画の模写を見せてもらった」とあり、終盤で法隆寺金堂壁画の印象が語られる。侍菩薩については「まことにこの画こそは真実の浄土図である」と書き、アジャンタ壁画との共通点に触れている。だが、和辻は両者の差異についても独自の洞察によって持論を展開していく。侍菩薩の作者は「推古仏を愛する人々の素朴な心を尚び、その心に投ずることを心がけたのであろう」と想像を膨らませ、インドの壁画が日本に来て気韻を変化させた理由を、日本の土地に求め、「もし日本の土地が、甘美な、哀愁に充ちた抒情詩的気分を特徴とするならば、同時にまたそれを日本人の気稟の特質と見ることもできよう」と指摘した。そして、和辻はこの特質の表現を、『古事記』の伝える神話の優しさや、中宮寺観音に表れた慈愛や悲哀に見て、「そこには常にしめやかさがあり涙がある」と書いた。すでにここに、後の『風土』に示される発想が芽生えている。

 和辻は、天心の講義によって、日本の伝統美術を通じた、外来文化の日本への影響と、日本の独自性という問題意識を抱くようになったのである。湯浅泰雄は、「彼の思想形成の最も早い時期から既に、外の世界に対抗して立つ『日本国家』の存在がつよく意識されていたということ、そしてそのような日本国家に対する意識を基盤にして、世界の諸文化の中で一定の位置を占める日本文化のあるべきあり方が一つの課題として見通されていた」と主張する(湯浅泰雄『和辻哲郎』ミネルヴァ書房、昭和五十六年、六十二頁)。一方、岡田勝明氏は「『日本研究』が和辻哲郎を貫く一筋の赤い糸と考えられます」と書いている(岡田勝明「『続日本精神史研究』を読む(Ⅰ)」『和辻哲郎を読む』平成二年、六十二頁)。

 和辻は、『倫理学 上』(昭和十二年四月)の序論で、「倫理学を『人間』の学として規定しようとする試みの第一の意義は、倫理を単に個人意識の問題とする近世の誤謬から脱却することである。この誤謬は近世の個人主義的人間観に基づいている。(中略)個人主義は、人間存在の一つの契機に過ぎない個人を取って人間全体に代わらせようとした。この抽象性があらゆる誤謬のもととなるのである」と書いている。

 日本的、アジア的な「全体性」を重視し、西洋近代の人間観を克服していこうという和辻の発想もまた、天心の東洋文明論の着想と無縁ではなかろう。天心は、『東洋の理想』の最終章「展望」で「アジアの栄光は(中略)すべての人の胸に脈打つ平和の鼓動の中にある。帝王と田夫とを合一させる調和の中にある。あらゆる共感、あらゆる礼讃をその結果たらしめるところの、崇高な同心一体の直観の中にある」と書いている。

 ただし、和辻は一直線に日本に回帰していったわけではない。彼は、明治二十二年三月一日、兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野(現・姫路市)に医師であった父瑞太郎、母まさの次男として生まれた。一高入試の準備のために明治三十九年四月に上京した彼は、兄の紹介状を持って魚住影雄のもとを訪ねた。魚住はかつて姫路中学で兄の一級上だったが、姫路中学に対する不満から東京へ出て一高に入った。和辻は、当時一高の三年生だった魚住から同校受験の注意のほかに、同校の校風や思想傾向などを聴いた。ところが、魚住は同校の質実剛健、勤倹尚武の気風や、皆寄宿制度などを保守主義・反動思想として批判し、個人主義を主張していた。

 魚住は、校友会雑誌に「個人主義の見地に立って方今の校風問題を解釈し進んで皆寄宿制度の廃止を論及す」と題した論文を寄せ、「西欧の思想や倫理には学ぶべきところが非常に多いのであるから、それを十分に理解しおのれの人格に生かすならば、それは軽佻だとはいえない」と書いていた。

 和辻はこうした魚住の主張に感化されたばかりか、彼の影響によって、英文学の道に進むという当初の方針を転換して哲学志望を決めた。明治四十二年七月に一高を卒業した和辻は、同年九月東京帝国大学文科大学哲学科に入学する。

 在学中、哲学、西洋古典学を講じていたラファエル・フォン・ケーベルに傾倒する一方、谷崎潤一郎らとともに『新思潮』の同人となり、『スバル』や『三田文学』にも寄稿していた。卒論でショーペンハウエルを取り上げたのも敬愛するケーベルの査読を乞うためであった。卒業後、大正二年には『ニイチェ研究』を発表する。和辻は、「当時は、なんでもかでも西洋崇拝で、私なども西洋かぶれで、ニイチェとばかり暮らしていた」と振り返っているほどである。

 大正四年には、『ゼエレン・キェルケゴオル』を刊行している。この時期には、未だニーチェもキェルケゴールも、実存主義者として解釈されていなかった。したがって、和辻にもそうした視座は乏しかった。高坂正顕が指摘するように、和辻はニーチェを「痛苦懊悩を正面から受け、苦しみ抜き、悩みぬいたそのどん底から、雄々しく湧き出てくる生の肯定を説いた人」として解釈した。一方、キェルケゴールのうちに「厳粛な倫理学者」を見ていた。注目すべきは、和辻が北欧的、キリスト教的なキェルケゴールを読みながら、何かしら異質なものを感じつつあったことである。

 『ゼエレン・キェルケゴオル』序には、「私は近ごろほど自分が日本人であることを痛切に意識したことはない。そしてすべて世界的になっている永遠の偉人が、おのおのその民族の特質を最も好く活かしている事実に、私は一種の驚異の情をもって思い至った。最も特殊なるものが真に普遍的になる」と書いていた。

 また、湯浅泰雄が指摘しているが、大正二年の和辻の研究ノートには、すでに日本の文化史や思想史、国民精神の在り方に強い関心を抱いたことを示す書き込みがあり、日本回帰の兆しは当時からあった。

全体性への順従を意味する清明心

 飛鳥、奈良朝仏教美術への驚嘆は、和辻を日本の過去へ連れて行った。そして、彼に、偉大な文化を創造した日本人は、そもそも何であるかという疑問を抱かせた。こうして書かれたのが、『日本古代文化』(大正九年)にほかならない。同書刊行準備をしていた時期、和辻は書簡の中で、次のように書いている。

 「日本の古い事は希臓や欧洲の事ほど偉大ではない。しかしそれが、我々の血の中に知らず知らず存在している祖先のたましいだと思うと、妙な愛着が生ずる。またもう一つは、日本の研究が、埋もれているものを発掘する事だ、という興味がある。我々日本人として、いま最も世界的な仕事の出来るのは、この研究かも知れない。何故かというと、これまでは世界文化といえば欧洲文化であったが、最近に至って東洋文化が西洋文化に対立する様な勢を得て来た。そうして東洋では日本が最も恐れられている。(中略)とにかく日本は世界の名物になる。そうしてその日本の造り出した文化は、世界史上に著しい痕跡を残すだろう」

 『日本古代文化』には「道徳思想」の一章があり、独自の倫理学の萌芽がみられる。和辻は、古代日本民族固有の道徳思想は、ある意味で現代の道徳思想よりも優れていると主張し、それは、上代人が「善悪の彼岸」にいたからだとした。そして、原始日本の本来の神々は、いわば「自然児の神化」であり、政治的対立を超えて善悪の彼岸にあるものであったと考えた。ただし、この時点では「全体性」を中核とする独自の倫理学に繋がるところまで議論は発展させられなかったが、昭和十四年の同書改稿版では、注目すべき議論がつけ加えられた。和辻は、善悪の価値に代わる、「清さ」(清明心)と「穢さ」の価値を掲げたのである。清く明るい心、清明心とは、「共同体の内部において己れを全体に帰属せしめ何らの後めたい気持ちにも煩わされぬ明朗な心境」であり、それは和順の心境である。それに対して、穢い闇い心とは、主我的な衝動によって全体から背き、後めたい気持ちによってひそかに心を悩ますような心境であり、それは反逆の心境とも言い得る。

 和辻は、スサノオが「穢き心」を持っているとの嫌疑を晴らすために、自らの「清明」を証明しようとしたことにふれた上で、清さと穢さとの価値は全体性への態度に即して現われると主張し、「全体性への背反において罪を認めた上代人は、同じく全体性への背反において、『穢さ』を認め、全体性への従順を『清さ』『明るさ』として貴ぶのである」と書いた。さらに、次のように説いている。

 「上代人は、全体性の権威を無限に深い根源から理解して、そこに神聖性を認めた。そうしてその神聖性の担い手を現御神や皇祖神として把握した。従って全体性への順従を意味する清明心は、究極において現御神や皇祖神への無私なる帰属を意味することになる。この無私なる帰属が、権力への屈従ではなくして、柔和なる心情や優しい情愛に充たされているところに、上代人の清明心の最も著しい特徴が看取せられるべきであろう」

 和辻は、『尊皇思想とその伝統』(昭和十八年)でも、「『私』を保つことは、その見通されない点においてすでに清澄でなく濁っており、従ってキタナキ心クラキ心にほかならないが、さらにそれは全体性の権威にそむくものとして、当人自身にも後ろ暗い、気の引ける、曇った心境とならざるを得ない」と書いている。さらに、「日本の臣道」(昭和十八年)においては、あらゆる人間の道が清明心に帰着すると説き、日本史においては「正直之心」として現れたと書いた。そして、三種の神器を、鏡=正直、玉=慈悲、剣=智慧と解釈した北畠親房を、清明心の伝統をまっすぐ受け継いだものと位置づけた。

ハイデガーとの格闘と『風土』

 文部省在外研究員としてドイツ留学を命じられた和辻は、昭和二年二月ヨーロッパに出発、三月末にマルセイユに到着した。その後ベルリンを拠点として、ドイツ、フランス、イタリアの各地とロンドンに旅行した。

 和辻は、近代自然科学に代表される近代的な知のあり方に異を唱えるディルタイ、ハイデガーらの解釈学を組み替えることによって、独自の理論構築を試みた。『風土』(昭和十年)の「序言」で、和辻は留学中の昭和二年初夏、ハイデガーの『存在と時間』を読んで疑問を覚えたことが「風土性の問題」を考え始めた契機であると書き、そこから「人間存在の構造契機としての風土性」を構想するに到ったと述べている。また、『倫理学』では次のように書いている。

 「空間性に即せざる時間性は未だ真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼のDasein(現存在)があくまでも個人に過ぎなかったからである。彼は人間存在をただ人の存在として捕へた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的な一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性に於て把握せられるとき、時間性は空間性と相即して来るのである。ハイデッガーに於て充分具体的に現はれて来ない歴史性も、かくして初めてその真相を呈露する。と共に、その歴史性が風土性と相即せるものであることも明かとなるのである」

 星野勉氏は、和辻のハイデガー批判の要諦は、ハイデガーが人間存在を個人と社会との具体的な二重構造において捉えていない点にあると指摘する(星野勉「和辻哲郎の『風土』論・ハイデガー哲学との対決」『法政大学文学部紀要』平成十六年度、四頁)。

 さて、和辻は『風土』において、「人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である」との立場に立って、日本の風土を分析する。

 彼によれば、日本は、大雨と大雪という二重の現象においてモンスーン域中最も特殊な風土を持つ。それを彼は「熱帯的・寒帯的の二重性格」と呼んだ。この二重性によって、日本人は単に熱帯的な、単調な感情の横溢でもなければ、また単に寒帯的な、単調な感情の持久性でもなくして、豊富に流れ出でつつ変化において静かに持久する感情を持つようになったとし、日本の国民的性格を次のように表現した。

 「日本の人間の特殊な存在の仕方は、豊かに流露する感情が変化においてひそかに持久しつつその持久的変化の各瞬間に突発性を含むこと、及びこの活発なる感情が反抗においてあきらめに沈み、突発的な昂揚の裏に俄然たるあきらめの静かさを蔵すること、において規定せられる。それはしめやかな激情、戦闘的な恬淡である」

 和辻は、この「しめやか」という言葉には、濃やかな感情の静かな調和的な融合が言い現わされていると説明している。そして彼は、「家」としての日本の人間の存在は、この「しめやかな激情・戦闘的な恬淡」というような日本的な「間柄」を家族的に実現していると述べ、日本人がその全体性を自覚する道も、家の全体性を通じてなされたと主張する。そして、次のように続ける。

 「日本の人間がその全体性を自覚する道も、実は家の全体性を通じてなされたのである。人間の全体性はまず神として把捉せられた。しかしその神は歴史的なる『家』の全体性としての『祖先神』にほかならなかった」

 それは、古代における最も素僕的な全体性の把捉だが、その素僕な活力が国史の展開を通じて活き続けていると、和辻は言う。そして、原始社会において、人間の全体性は神秘的な力として自覚されたため、国民の全体性はまず宗教性に把捉せられたと説いた。

 さらに和辻は、『尊皇思想とその伝統』(昭和十八年)において、太占を例にとり、祭祀そのものが全体性の自覚の一つの形態だということを力説している。

日本の歴史的伝統とは何か

 和辻は、『人間の学としての倫理学』(昭和九年)において、人間が、親子、夫婦、兄弟、友人など、様々な間柄の中で生きる「間柄的存在」であることを強調していた。そして、彼は、もともと「世の中」「世間」「人界」を意味する漢語「人間」を、日本人は「ひと」をも意味する「人間」として誤って使ってきたと指摘した。

 こうした着想は、精神医学者の木村敏氏の『人と人との間』や、浜口恵俊『間人主義の社会 日本』などにも影響を与えている。

 一方、彼は人間の学としての倫理学の構想を、アリストテレスをはじめとする哲学者から読み取ろうとしたが、その中で特に注目したのが、ヘーゲルの人倫の学であった。ヘーゲルは、晩年の主著『法哲学』で、倫理の問題を人間の内面性の問題として考えるだけではなく、社会的関係の場において考えることの重要性を説いていた。

 子安宣邦氏は「具体的な人倫的組織を、『人倫』が自らを実現していく過程としてとらえ、その組織における人間の差別的・無差別的統一といった存在構造を明らかにしていくヘーゲルの『人倫の体系』は、人間的共同存在の態様、あるいは人倫的組織をめぐる学としての倫理学の可能性を和辻に大きく開くものであった」と指摘している([解説]『人間の学としての倫理学』岩波書店、平成十九年、二百七十二頁)。

 和辻は、「人倫の哲学は、絶対的全体性を『空』とするところの人間の哲学としても発展し得る」と書いているが、彼はすでに『日本古代文化』を発表した後、原始仏教の研究に進み、『原始仏教の実践哲学』(昭和二年)を発表していた。これもまた、日本古代文化研究で発見した国民的道徳の体系化の一環であった。

 和辻は、原始・大乗仏教の根本真理としての「空」を、日本の国民的道徳を根拠づける無限なる全体性、絶対的全体性──家族より初めて国民全体に到るまでの生活共同体をあらしめる──として解釈しようとしていた(荒牧典俊「『原始仏教の実践哲学』を読む」『和辻哲郎を読む』百二十三頁)。そして、『倫理学 上』では次のように書いている。

 「個人も全体もその真相に於ては『空』であり、そうしてその空が絶対的全体性なのである。この根源からして、即ち空が空ずるが故に、否定の運動として人間存在が展開する。否定の否定は絶対的全体性の自己還帰的な実現運動であり、そうしてそれがまさに人倫なのである。だから人倫の根本原理は、個人(即ち全体性の否定)を通じて更にその全体性が実現せられること(即ち否定の否定)に他ならない。それが畢竟本来的な絶対的全体性の自己実現の運動なのである」

 和辻は、仏教の空を自らの哲学の根本原理として採用する過程で、西田幾多郎や田辺元らの影響を受けていた。和辻が西田の誘いで京都帝国大学講師となったのは、大正十四年三月だが、和辻の没後に発見された、学生時代の研究ノートにはすでに、西田の『善の研究』への言及が散見される。和辻自身の回想によると、すでに彼は明治四十三年頃、友人を通して、西田の人となりと思想とを知ったという。

 ところで、和辻の評価を困難にしているのは、彼の忠君に対する独自の立場であった。

 彼は「日本精神」(昭和九年)において、忠君の思想が日本において成立し発展したのは、あくまでも武家時代の事であり、「主君」、「君」と言われるのは封建君主のことであって天皇のことではないと説いた。そして、日清、日露の戦争の時代に「忠君愛国」の標語が掲げられるに当たって、人は封建的思想の根本的破壊を行なうことなくして忠君の概念を用いようとしたと書いた。

 こうした和辻の考え方は、戦前戦後一貫しており、「封建思想と神道の教義」(昭和二十一年)においては強烈な天皇尊崇の力によって国家的団結が形成された時代に、人々が天皇に対する「まこと」を言い表した言葉は、清明心・正直心・忠明之誠などであって、忠義・忠君ではなかったと説いた。注目すべきは、和辻が「封建思想と神道の教義」において、教育勅語について次のように書いていることである。

 「そこでは、孝、友、和、信、恭倹、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益、世務、国憲尊重、遵法、義勇奉公など、それぞれの人倫的組織に於ける行為の仕方を示してゐられるが、その中に忠義・忠君は並んでゐないのである。

天皇に対する忠節は、孝以下と同列の行為の仕方ではなくして、これらの全部を含んだものでなくてはならぬ」

 吉田茂首相が教育勅語に代わる綱領を作成するために、昭和二十四年六月に「文政審議会」を設けたとき、和辻は、この審議会に長谷川如是閑、小泉信三、安倍能成、高橋誠一郎、天野貞祐らとともに名を連ねた。この年、和辻は還暦を迎えて東京大学教授を退官し、著作活動に専念するようになっていた。

 翌昭和二十五年五月には、天野貞祐が文部大臣に就き、昭和二十六年十一月に国民実践要領を発表する。天野は京大時代以来、和辻と親しい関係にあり、国民実践要領を起草した高坂正顕は和辻の『倫理学』編集を手伝うほど近い関係にあった。和辻の考え方がこの要領に反映されていたと見て間違いないだろう。実際、要領前文には、「公明正大」、「無私公明」という言葉がそれぞれ二回繰り返され、第一章「個人」には、「純潔」の項目を挙げて「われわれは清らかなものにたいする感受性を失わぬよう心がけねばならない。清らかなものにたいする感受性は、道徳生活の源である」と謳われていた。和辻が強調した清明心に通ずる考え方である。残念ながら、結局、国民実践要領は日の目を見なかった。

 昭和三十五年二月、和辻は数度目の心筋梗塞の発作に襲われ、その後一進一退を続けたが、同年十二月二十六日死去した。七十一歳であった。古代史研究や風土論によって日本人とは何かを探究してきた和辻が、死ぬ寸前まで考え続けていたことは、「上代以来受け継がれてきた伝統とは何か」ではなかったか。亡くなる前年、彼は「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について」を発表、次のように書き残している。

 「紀元節とか、宮城とか、大元帥とかいうもの…これらは明治時代特有の考え方を示したものであって、日本の古い歴史的伝統と係わりがないばかりか、むしろ歴史的伝統とは相容れない点を持つものである」

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