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筧克彦─「イヤサカ先生」と呼ばれた「一心同体」の体現者

教室に響き渡る「弥栄」の声

 フロックコートにガウンを着て、筧克彦はゆっくりと教室に入って来た。まず拍手を打ち、「弥栄」と一声叫ぶと、教室は異様な雰囲気に包まれる。生徒たちに数行筆記をさせた後、ゆっくり講壇を歩きながら講義し、「天皇弥栄、弥栄、弥栄」と叫んで終了する。彼が「イヤサカ先生」と呼ばれた所以だ。彼は「弥栄」について、次のように説明していた。

 我々が一つの心になって、心の底から唱える歓びの声、祝いの声は「弥栄」でなければならない。心の奥から発する願いの声、祈りの声は「弥栄」でなければならない。そもそも、我々の根本精神を率直に吐露する響は、音声それ自身が根本精神を完全に表現し、心も言葉も響も帰一するものでなければならず、この要件に該当するものが「弥栄」である。日本人の中から自然に発生した呼び声には、今日も「いやさか」を呼ぶものがあり、例えば盆踊りの節にも「いやさか さっさ」、「いやさか さー」と囃す。

 そして、筧は次のように続ける。

 「天照大御神様の御魂は……弥栄えます万世一系の御霊であらせられ、現に万世一系の 天皇として弥栄え給ひ、天皇陛下は斯かる一系唯一の天皇を表現し給ふ御方なり。されば弥栄の一念に燃えたる我我が……天照大御神様、天皇陛下の『いやさか』を祝ひまつりて高呼することは、……我我の深き要求を満足せしむるものである」

 講義の最中に唱えていた「天晴れ、あな面白、あな手伸し、あな明け、おけ」については、「天照大御神を慕ひまつり、弥百万神が一口同音に高唱し給ひし称へ言」だと説明している。

 彼は明治三十六年八月、東京帝国大学法科大学で行政法第二講座を担当することになった。明治四十一年に刊行された『学界文壇時代之新人』は、「東京法科大学の二名物」として、美濃部達吉とともに筧を取り上げ、次のように描写している。

 「唯真面目で、唯率直で、唯朴実……この仙骨的風貌は其学問に於いても同じく超然式説明となつて表現され、些の俗気又は迎合的分子を含んで居ない」、「粗服垢面髪梳づらず、威儀整はず、風采の揚らぬこと一通りでない。然も亦講壇に立て法理を説くや、眼中権勢なく富貴なく議論雲湧き風走るの概がある」

 筧は、大正九年には「皇国運動」と題する小冊子を刊行し、独自の体操法を提唱した。後に「日本体操」と呼び変えたが、ともに「やまとばたらき」と読む。戦後の歴史観では、風変りな体操としてしか語られることはないが、筧は、身体の運動によって、始祖以来の生活体験を自覚し、皇国精神を磨くことを体操の目的として掲げていた。また、彼は当時普通に行われていた体操が西洋伝来のものであって、人格から身体を切り離し、肉体のみの発育、健全化を目的としていると指摘していた。以下に挙げる日本体操の順序は、古事記をはじめとする日本神話の物語の順序に合致しているという。

 「①立て」(お辞儀)、「②みたましづめ」(丹田呼吸、十五~二十秒)、「③をろがめ」(深く一拝)、「④擲げ棄て」(左右各一回)、「⑤吹き棄て」(ア、ウ、オ 三段の深呼吸)、「⑥いざ進め」(高く足踏み、三回)、「⑦いざ漕げ」(左右各一回)、「⑧参ゐ上れ」(一回)、「⑨気吹き」(深呼吸)、「⑩神楽遊び」、「⑪ひと笑ひ」(「かれ、高天原動りて、八百万神共に笑ひき」と復唱)、「⑫出まし」(「かれ、天照大御神出でませる時に、高天原も、葦原の中つ国も、自ら照り明りき」)、「⑬天晴れ、おけ」、「⑭みことのり」(天照大御神の御神勅、高皇産霊神の御神勅)、「⑮あまくだり」、「⑯いやさか」

ドイツ留学とディルタイの汎神論への傾倒

 筧は、明治五年十一月二十八日、筧朴郎の長男として長野県上諏訪に生まれた。朴郎は、平田篤胤没後の門人である飯田武郷と交流があった。飯田は、『日本書紀』の注釈書『日本書紀通釈』七十巻を完成させた人物であり、筧の古神道への関心に影響を与えたと推測される。

 明治二十二年七月に東京府尋常中学校を卒業し、第一高等中学校(後の第一高等学校)に入学する。この時期に筧が世話になったのが叔父の小沢豁郎であった。明治十七年に勃発した清仏戦争に際し、フランス語に堪能だった小沢は福州に赴き、そこで諜報活動を行った。このときの体験から、清国改造の必要性を痛感し、明治二十三年には福本日南、白井新太郎らとともに、副島種臣を会頭として東邦協会を設立している。

 筧は、小沢の世話で後に陸軍中将となる榊原昇造の家に寄寓して通学することとなった。榊原は福羽美静の門弟で国学に造詣が深かった。筧は、榊原や小沢の影響もあってか、中学初年までは軍人になることを志していた。だが、結局彼はそれを断念した。小学校時代、運動会の旗とり競争の際、旗をさした鐶に左薬指をさし込み、その第一関節を失っていたからである。

 結局、筧は第一高等中学では工科に入学した。当時の日本では、木造船しか作ることができず、鋼鉄船は全て輸入しなければならなかった。そこで、自らの手で鋼鉄船を建造しようと志したのである。ところが、いろいろ勉強するうちに、一介の造船技術者としてより、国家の法制や教育の制度を整えるための学問をし、その指導者となった方が、より国のためになるのではないかと思うようになり、法科へ転科した。

 明治二十七年、筧は一高を卒業して帝国大学法科大学に入学した。明治三十年に卒業すると大学院に進み、明治三十一年六月には教育行政や教育制度を研究するためドイツに留学した。ベルリン大学でオットー・ギールケ教授などから指導を受けていたが、やがて筧は、ヨーロッパ近代の国家行政や教育制度を本当に学ぶには、その根本にある近代精神を捉えねばならず、そのためにはヨーロッパの文学や美術、さらに進んでキリスト教を理解する必要があると考えるようになったのである。

 当初文部省が定めていた留学期間は三年間であったが、筧はストーブをつけずにベルリンの真冬を過し、豚の腸を食べて食費を節約するなどして費用を捻出し、留学期間を延長し、キリスト教のみならずギリシア以来の哲学の研究を深めた。ウィルヘルム・ディルタイからは研究指導を受けただけではなく、その家族とも親しくなり、強い影響を受けている。特に、全ての物体や概念・法則が神の顕現であり神性を持つとする汎神論に関心を強めた。

 終生彼はヨーロッパ文化の理解者としての片鱗を見せていた。例えば、東京帝大で筧に学んだ南原繁は次のように振り返っている。

 「…一九五九年十月、米寿のお祝いに当って法学部で思い出の講義をしたいというので、法学部教授諸公の好意的なはからいで憲法研究会の主催で講壇に立たれましたね。あのときに長いシラーの詩を暗誦された。みんなびっくりしましたね。さすがに長い間、学問をやってきた人だけある。単なる古神道ではない」

仏教哲理から古神道へ

 三年間の予定だった留学は、結局六年に及び、筧はようやく明治三十六年八月に帰国した。直ちに東京帝国大学法科大学教授に任ぜられ、法学博士の学位を授与された。当時、筧はキリスト教の精神をどう日本人に伝えるかで想い悩んでいた。そんな彼と対話するようになったのが、大蔵省で父朴郎の同僚であった宮田直次郎であった。宮田は曹洞宗管長の西有穆山の門弟で、仏教の教学に精通していた。朴郎を訪問するたびに、宮田は筧にドイツの哲学のことなどを尋ね、「克彦さん、それは仏教の方では古くからこういう風に言っていますよ」などと言って、仏教のことをいろいろ説明した。こうして、筧は仏教研究へ入っていったのである。それから三年ほどの間、電車を待つ間も仏典を手ばなさずに読むほど勉強したという。

 明治四十一年から筧は法理学の講座を兼担することになったが、そこで講じたのが仏教哲理であった。この講義をまとめた『仏教哲理』(明治四十四年)の序文には、「法学研究者トシテ、在来普ネク意識セラレタル仏教ノ原理ヲ拡充シ、之ニ新解釈ヲ施シ、法律生活政治活動ニ根拠ヲ与ヘ、法理ノ研究ニ資スル所アラントスルモノナリ。法律政治ノ生活、其間ニ存スル法理ニヨリテ仏教哲理ヲ闡明ニスル必要モ亦切ナルベケレドモ、仏教哲理其偉大ナル信仰ニヨリ法理ヲ解釈シ得ルコトモ実ニ尠少ニ非ルベケレバナリ」とある。

 筧の研究者である竹田稔和氏は、ディルタイのいう汎神論は現世を肯定し現世における個々の多様な有様を尊重しつつ、その背後にある全一的な生を見ようとするものであったのに対して、大乗仏教は人間否定、現世否定の解脱宗教であることを本質としていたと指摘しているが(竹田稔和「『ドグマティズム』と『私見なし』」『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』平成三年三月、百九十六頁)、筧は仏教の現世否定的側面に不満を感じるようになっていったようである。やがて、彼は「超越的性質ヲ有スル印度仏教」が日本に至ると「国家的仏教」となったのは、「日本古道が活キ活キスルコトヲ示スモノ」だったからだと確信した。

 こうして古神道へ没入していった筧は、独自の研究と体験を通じて体系的理論を固めていく。筧の次男で、学習院大学教授などを務めた筧泰彦は、筧の学問的態度について「自分の体験というものを重んじて、自分が得心のいくまでよく考えた人であります。偉い学者がこういっているからとか、名著にこうあるからといって、それをすぐ鵜呑みにすることなく、何事によらず自分でそのものに当たり、よく考え、よく吟味して論断を下しました」と書いている。

 古神道の宇宙論として、筧は宇宙の大生命である天之御中主神がまず一切の表現者を総攬する最高の神として皇産霊神を顕現させ、この神に創造化育生成の作用を表現させつつあり、各人各物は天之御中主神をその内部に包蔵していることを強調した。そして彼は、総攬表現人であられる天皇のもとに、各々が日本我という普遍我(「各人本来の一心同体それ自身」)に帰一し、その表現人たる所以を発揚し、各自の権限を尊重し、その分を実行すべきだと主張した。各々が「むすび」(生成化育)に参画すべきだというのである。こうした思想は、「生産」に独特の観念を見出す皇道経済論の先駆とも位置づけられる。

 彼はまた、古神道は天照大神により確定され、神武天皇を透してこの世に実現された道であり、皇国の政治、法律、道徳、美術、風俗、習慣などは全てその顕れだとした。明治四十五年二月、彼は東京帝大の日本学会で講演し、こうした古神道理論を説いた。乃木将軍もこの講演を聴き、大いに感銘を受けたという。この講演内容をもとにしてまとめたのが、大正元年に刊行された『古神道大義』である。

「一切を除外せぬ大度」を体現

 この頃、筧の周囲では天皇機関説論争が勃発していた。明治四十四年十二月、東京帝大助教授の上杉愼吉は『国民教育帝国憲法講義』で美濃部達吉の天皇機関説をとりあげ、「機関と申せば他人の使用人」であり、「他人の手足」であるとし、機関説は「革命を是認する危険な思想」だと批判した。これに対して、美濃部は明治四十五年三月に刊行した『憲法講話』序文で、「専門の学者にして憲法の事を論ずる者の間に於てすらも、尚言を国体に藉りてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑へて其の絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下に其の実は専制政治を行はんとするの主張を聞くこと稀ならず」と反論した。さらに美濃部は、上杉の立場を「君権主義官僚政治主義」と批判した。

 これに対して上杉は、「国体に関する異説」(明治四十五年六月)で「凡そ国家法人説なるものは民主の思想を法学の篩にかけて圧搾したるものなり、其の本義民主共和に或ること予が夙に主張したる所なり」「天皇は統治者にして被統治者は臣民たり、主権は独り天皇に属し、臣民は之に服従す、主客の分義確定して紊るゝことなし」と反撃している。その後も両者の応酬が続く中で、両者の対立について意見を求められた筧は、まず機関説の欠点として、(一)国体と政体との区別を認めない(二)総攬者の自主者たる義を認めず、総攬者を議会と対立させる者がある(三)君主に法律上の意思を認めず、人格を認めない(四)君主を国家より後に存在する者と見る(五)忠君の根底を説くことができない──ことを挙げた。

 その上で、君主主権説の欠点として、(一)君主を人民より離れて存在できるものとするに至れば、君主は人民を捨て、人民は君主を離れて存在し得ることになる(二)人民の個性、人民の権限の神聖を認めない(三)国家において、道理や法律は国権の独断によって決められ、国内に是認される宗教、道徳、学問、美術は専制者の独断に根拠すべく、各人の公平な自由心証を否認することも致し方ないとしている(四)忠君を認めえるが、愛国の根底を認め難い──ことを挙げた(筧克彦『国家の研究 第一巻』春陽堂書店、昭和十八年、二百七十四、二百七十五頁)。こう指摘した上で、両説とも「差別に固執」する同一の根拠の上にできており、わが建国の御主意に協はず、神聖で、雄大なわが国体を発揚できないと喝破した。そして、筧は制度を介しない形で国家と各個我の人格を同一化させ、両者を統一しようと試みたのである。

 こうした姿勢は、彼が古神道の理論から導き出した道徳論と密接に関係している。彼は、各自の分を以て同心一体であるということを前提として、これを発揚し、人類普遍我の同心一体に拡張することに協うものが善であり、これを害うものは悪だという考え方を示し、次のように書いていた。

 「日本各人は、何人も除外なしに、初めから同心一体の一人であるから、『一切を除外せぬ大度及び愛』が最も根本の徳である。何人に対しても一様に『ひろく大きい』所があり、何人に対しても一様に『情け深い』ことが最高の道徳である。寛仁大度、仁慈、仁愛などの最も根本的博大なるものである」

 「広く大きい」心は、筧の人格そのものだったようである。岡山県知事、大阪府知事、文部大臣などを歴任した安井英二は、自らの人生を振り返り、「規模広大で何ごとも排斥しないという心構えも筧先生の影響である。何事も排斥しないから、本末軽重が大切になってくる」と語っている(『安井英二先生談話』信学行社、昭和四十五年、三百十五)。

 一方、梅本克己は、学術振興会の会合で道元や芭蕉に依拠して日本精神を唱えた学者と日本主義派の松永材が、国体問題を巡って激論を交わしたときのことを次のように振り返る。

 「どうなることかと思ってみていると、そこに筧さんがヒョコヒョコ出てきた。壇に上るといきなり、パン、バーンとかしわ手を打って、実にいい人相で(笑)、お二方とも、どちらもよろしい。道元さまも、親鸞さまも、それから吉田松陰さまも、みんな同じところから出た神さまです。それがヤオヨロズの神というものだ、というわけで、激突も毒気をぬかれて蒸発してしまった(笑)」(『丸山真男座談 第六冊』岩波書店、昭和四十一年、五十頁)

 また、作家の横光利一が満身創痍になりながら、『旅愁』の最終章「梅瓶」で描こうと試みたものも、筧の唱えた日本的寛容性ではなかったか。

他宗教・他民族を尊重する古神道の普遍的

 筧は古神道の普遍性に基づいて世界全体を救済するという使命感を抱き、「豊葦原の中つ国の制度は世界即ち豊葦原全体の制度の模範であり中心である。神道は其聖道である。我我は神道の信仰を以て世界全体を救済し、之を世界の制度文物に実現せねばならぬ」と主張していた。ただし彼は、決して他の宗教や他の民族を敵視していたわけではなく、「外教が劣等であるとか、外教が悪いとかいふ様な意味ではなく、又他の国家民族を凌ぐ意味でも亦軽蔑する意味でもない。各宗教各民族がそれぞれ其の分担を行ひ、各ゝ其の独立を保持していくことは皆神聖なことである」とも書いていた(筧克彦博士著作刊行会『古神道大義』昭和三十三年、二百八十五頁)。また、筧は次のように説いていた。

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