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木村武雄と中川一郎の「激突対談」

昭和四十八(一九七三)年三月、日中共同声明に基づいて、日中航空協定交渉が開始された。中国側は、①中華航空の社名使用、②機体に描かれた青天白日旗(台湾国旗)の使用、③中華航空の日本からの以遠権(航空機が到着国を経由し、さらに第三国への運行を行える権利=引用者)、④中国民航と中華航空の空港共同使用──のいずれをも拒否していた。
 こうした中で、昭和四十八年七月十日に結成されたのが、青嵐会である。藤尾正行、渡辺美智雄、浜田幸一、中川一郎、石原慎太郎ら三十一人が血判を押して参加した。青嵐会は、正常化から一年を迎える同年九月二十九日に合わせて「中華民国国交断絶一周年大訪問団」を台北に送り込んだ。そして彼らは日中航空協定交渉をめぐり、「日台路線の現状に大幅な変更を加える協定は認められない」と主張した。
 この時、日中航空協定を批判する党内の声と堂々と向き合ったのが、木村武雄であった。木村は『週刊サンケイ』誌上で、中川一郎との対談に挑んだ。誌面には「激突対談」「国を誤るのは誰か」といった見出しが躍っている。
 ここで中川は、日中航空協定が、「日本航空を台湾に飛ばさない」「大阪空港は台湾路線を使わせない」としている点などを問題視した。さらに中川は、日中国交正常化への不満をぶちまけたのだ。
 「もっと遡っていいますと、日中正常化は党内のコンセンサスが得られておらなかった。これは違反行為ですよ。日中国交から一年数か月たって振り返ってみる時、なぜあの時、慌てなければいけなかったのか。弱い国・台湾、今までお世話になった台湾を、ムザンにも切り捨てた」
 これに対して木村は「戦後、お隣の中国と国交を開く場合に、一番大きな問題は台湾だった。その中で、日本は台湾問題がほかの国よりもムズカシイことだけは間違いない。それから台湾に対しても、蒋介石政権に対しても、非常に親近感を持っておる。これも間違いない。道徳的に感謝しておることもそうだ」と答えた。ところが、中川はさらに木村を追及した。
 「木村先生も向こうに行って、中国礼賛して帰ってきて、われわれは非常に迷惑なんですよ。『毛沢東さん、周恩来さんは偉い。日本の戦略外交は、あの人のいうことを聞かなきゃいかん』というもんだから、向こうが思いあがって日本に強く出てくるじゃないですか」
 この中川の痛烈な批判に対して、木村は憮然とした表情で反論した。
 「そういうモノの見方は、どうかな。いいモノはいいんだよ。悪いモノは悪いんだよ。キミ、私は中国といつまでも対立抗争関係におるものじゃない、と思ってきた。特に向こうは原子兵器を持っておる。日本にとって、一つの脅威であることは事実だ。外交の基本姿勢とはな、脅威を与える国と仲良くして、脅威を取り除くことなんだよ」
 木村はこのように述べ、さらに自らの信念を中川にぶつけた。
 「そして、何といってもアジアの二大国は日本と中国だ。両国の間にいさかいがあっては、アジアは永遠に平和にならない。そういう信念に立って、自分は進んできたんだよ」
 ここには、石原莞爾の魂を引き継いで歩んできた木村の固い信念が表現されている。東亜連盟運動以来、弾圧に屈することなく一貫して「日中戦わず」と説き続けてきた人物の言葉だけに、中川はその重みを強く感じたのではないか。中川はこう応じた。
 「木村先生の意見に反論はしません。私どもも、中国とは歴史的にも文化的にも非常に深いつながりがあるんですから、仲良くするという基本は一致しているんです」(『週刊サンケイ』昭和四十九年二月十五日号)
 木村莞爾氏は、こう振り返る。
 「自民党内に国交正常化に対する強い不満があったのは事実です。しかし、元帥が覚悟を決めてやったことなら仕方がないという雰囲気もあったでしょうね。中川一郎さんをはじめ青嵐会に参加した人たちは、かつて親父がスハルトに紹介した人たちです」

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