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山路愛山─独自の史論を支えた抵抗の精神

岡倉天心流のアジア主義を守る

 現場近くの樹木には、「巌頭之感」と題した遺書が彫られていた。

 明治三十六年五月二十二日、第一高等学校生徒だった藤村操が日光の華厳滝で投身自殺した際に残したものである。このエリート青年の自殺は社会に大きな衝撃を与え、論壇では様々な議論が展開された。その間、多くの若者が同じ滝口から投身自殺を図り、藤村の死後四年間で未遂を含めて二百名余りが後を追ったとされている。

 「日本固有の忠孝を説く国家主義教育が、触れざるべからざる信仰の問題に干渉しようとしたことが問題だ」

 藤村の自殺に関して、体制側の教育政策を堂々と批判したのが、独自の史論を確立しつつあった山路愛山だった。彼は、政府の命令で忠良な臣民を作ろうとしてもそれは不可能だと言い切った。こうした主張の背景には、当時の国家主義教育の在り方に対する違和感があった。彼は、国体イデオロギーの強要に反発するとともに、それが民族間の差異を強調し、同一性を軽視していることに異を唱えていたのである。彼は水戸学が史実の探求に努めたことを評価しつつも、異なる国家の間の「国体人情の差別」を過度に強調したことを批判していた(「史学論」『国民新聞』明治三十三年七月二十日)。 官製史論への抵抗を駆り立てていたのは、在野の史論家としての愛山の誇りであった。「正史」に対する、在野の「野史」を提唱し、自らを「野史氏」と規定し、「男児筆をとつて文壇に立つ、たれをか仰ぎたれにか依らん、頼むところは我心のみ」と独立の気概を示していた。

 愛山の言論活動は、日本文化形成におけるアジア諸国の影響の大きさを強調した岡倉天心のアジア主義を守ろうとする抵抗運動でもあったのではなかろうか。

 小路田泰直氏は、日露戦争後、アカデミズムの世界では、アジア主義から日本主義への移行が始まっていたと見る(小路田泰直『日本史の思想』柏書房、平成九年、百七十二頁)。例えば、明治国家イデオロギーを主導する井上哲次郎は、武士道精神を日本民族特有の精神だと強調するようになっていた。また、高山樗牛は、「外来の文化を過重し、国民の政情を蔑視したるより、建国当初の精神は不幸にして十分の発展を見る能はざりき」と主張していた(「日本主義」明治三十年)。

 こうした主張に対して、愛山はアジア諸国からの文化的影響を肯定的に評価した。彼は、日本人が中国哲学、インド、ペルシャの文明を取り入れて文明を発展させてきたと主張したのである(「大日本祖国の歌」『信濃毎日新聞』明治三十二年四月二十九日)。さらに明治四十二年九月には、次のように書いている。

 「印度、逞羅、安南、呂宋、支那、蒙古、満洲、韓国は或は其文化の淵源に於て、或は其血液の同じきことに於て、日本の近親たり。今や日本史家の研究に依りて次第に其一幹の枝たるを発見せば、是れ直ちに大なる日本を発見し、我等の同情を催すべき領域を拡張するものに非ずや。斯くて日本にして若し広義の東洋を理会し、東洋諸国にして若し日本の中に自己の同情し得べきものを発見し彼此の思想感情相融解して一塊と為るを得ば、是れ豈史学の業は直ちに大なる精神的帝国を建つるものならずや」(「日本現代の史学及び史家」)  愛山は、アジア諸民族の多様な特質について独自の見解を持っていた。例えば、西はハンガリーから、トルコ、モンゴル、満州人、朝鮮人などのチュラニアン(ツラン人)と漢人の特質の違いを明確に説明していた。ツラン人が厳正な規律によって支配される共同生活体を理想とするのに対して、漢人は政府の干渉を好まず、規律によって支配されることを嫌い、自由放任を望む傾向があると指摘していた。愛山は、「狭義の日本人」(天皇とともに最初から建国の事業に従った日本帝国の核子)はツラン人であるとし、「高麗、新羅、百済、加羅から様々な人々が日本列島に来たが、これらの移住民は日本人と混合して一民族と言えるほどになった」と説いた(「上古日本の政治学」『独立評論』明治三十九年五月三日、二十四頁)。

 愛山は「狭義の日本人」と漢人との異質性を強調したが、「マレー人種=呉越人種」が日本に数多く渡って来たと考え、「広義の日本人」の多様性を説いた。藪田謙一郎氏は、「東胡匈奴」を視野に入れた愛山のツラニズムが、中国を排除するものではなかったと指摘している(藪田謙一郎「山路愛山の中国認識と人種論」『同志社法学』平成十九年、六百一頁)。

 実際、愛山は、日本人が中国人を不思議な異人だと思っているうちは、中国人を理解することができないと述べるだけではなく、古代日本に中国村が存在し、平安朝以後にも九州に唐人町があったことなどを挙げ、中国と日本の血縁を重視していた。

「いかなる思想も日本に入れば尊皇を説く」

 伊藤雄志氏が指摘している通り、井上哲次郎とは対照的に、愛山には人間の心は古今東西同一のものだとする、普遍的人間性への信奉があった(伊藤雄志「精神主義の覚醒と<日本への回帰>─山路愛山と井上哲次郎」『日本思想史学』平成五年九月、九十三~九十七頁)。

 しかも、愛山は、万物が不断の生成発展を続けるように、国家もまた生成発展するとの立場に立ち、「『日本国は既に造られたり』と思ふのは、それは老人の考へである、それは老いたる考へである。国は常に造られつつあるものである」とした(山路愛山『世界の過去現在未来』大江書房、大正六年、四百六十六頁)。

 かといって、彼は国体を軽視したわけでは毛頭ない。彼は、日本を大樹に擬え、外形は年とともに変化し、その一部は常に新陳代謝の作用が生じるが、その根と幹には変化がないとして、皇室中心の国体が揺るぎないものだと主張し、「日本の光栄ある歴史は皇室が思想変遷の歴史以外に超然とし、如何なる思想も凡そ日本に入り来つたものは遂に尊王を説くやうになる事実を示して余りあるものがあります」とも書いていた(「尊王論」『国民雑誌』明治四十四年五月(『山路愛山集 二』三一書房、昭和六十年、四百三頁)。

 小路田氏が指摘する通り、当時の高山樗牛らの主張は国学や水戸学の名分論とは異なるものであった。例えば、本居宣長は「玉くしげ」において、「異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず」と述べてはいたが、その前段において、わが国の「まことの道」の普遍性を次のように説いていたからである。

 「まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくたゞ一すぢなり、然るに此道、ひとり皇国にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失へり」

 この宣長の主張は、普遍性を説いている点では、むしろ岡倉天心の「日本=アジアの思想と文化の貯蔵庫」論に近い。天心は、「支那及び印度の理想が、それらを創り出した人々の手からは疾くに投げ棄てられてゐる場合にも、これを我々の間に純粋の形で保存してゐる所の執着力」とも表現していた。天心のいう「執着力」は、愛山が譬えた「根と幹」としての国体に支えられていたのである。

 日本独自の歴史に敬意を示しつつも、アジア諸国の文化的価値を認め、普遍的なものを追求した愛山の思想は、大川周明によって引き継がれた。大川は、愛山の死去から四年後の大正十年に『日本文明史』を著し、その序文において、わが国の国民的精神は「次々に入り来る新しき要素に対して、常に之を批判し、選択し、摂取し、統一して、茲に亜細亜一切の文明及び思想を綜合せる文明を実現した」と書き、わざわざ「予の本書に輯めたる諸篇の草するに当り、最も多くを負へるは岡倉覚三・山路愛山、北一輝の三氏である」と付け加えていたのである。

 天皇の政治的超越性からさらに進み、その思想的超越性をも主張した愛山は、その時代の哲学を尊皇論の基礎にしようとすることは危険な傾向だと考えていた(「尊王論」四百一頁)。だからこそ、彼は上からの国家主義教育に国民を服従させようとすることに批判的だったのである。

 愛山同様、北一輝も過激な言葉を用いて、井上哲次郎らが主導する明治「国体論」に抵抗していた。『国体論及び純正社会主義』(明治三十九年)で、北は「『国体論』の国体は土人部落の国体にして日本現代の国体にあらず」と書き、国民に絶対的服従を迫る体制を批判した(松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』文藝春秋、平成十七年、二十二~二十八頁)。

 愛山もまた、服従を迫る体制に反発し、「真の思想の統一」とは、自由、独立、創思、天才が横行濶歩しつつあるところに、自ずから生みだされるべきであると主張した(「独学論」)。時の権力が、国民を官・賊に分けるという発想自体に、愛山は納得していなかった。公家政治から武家政治への変化は、決して武家が皇室から政権を奪ったことを意味せず、「政務を奉行する人格」の変化を意味するに過ぎないとするのが、愛山の考え方だった。この愛山の考え方については、慎重な検証が必要である。

 いずれにせよ、愛山は、そもそも、賊は、王朝の交替夥しい中国についてのみ妥当する観念であり、わが国の「賊」はただ政府党を倒そうとした者に過ぎず、君主の権威に対しては一指たりとも触れることを欲しなかったのだから、賊と呼ぶのは誤りだと主張していた。だからこそ、彼は時代に抗い、『足利尊氏』(明治四十二年)を書き、尊氏を肯定的に描いてみせたのである。

 愛山が『源頼朝』よりも同書の刊行を優先させたのは、まもなく彼の史論に対する攻撃が開始され、刊行が困難になることを懸念したからだとも指摘されている(松本新八郎「解題」『足利尊氏』岩波書店、昭和四十一年、二百七十~二百七十三頁)。やがて大逆事件で捕まる森近運平が久米邦武の『南北朝時代史』を読み、幸徳秋水が室町時代の研究をするなど、社会主義思想を日本の歴史の中に読み取ろうと試みていたことに対して、体制側が警戒を強め弾圧にかかるとの確信が愛山にはあったのではあるまいか。

 愛山の予想通り、明治四十三年になると、南朝と北朝の併立説をとっていた『尋常小学日本歴史』が問題視され、翌年二月には帝国議会が南朝を正統とする決議を行った。こうした中で、文部省は同教科書の使用禁止を決め、執筆者の喜田貞吉文部省編修官を休職とした。喜田は、愛山の史論に通ずる『日鮮両民族同源論』に結実する研究を進めていた。

 事件以降、南朝正統説が言論空間を支配するようになる。やがて、愛山の史学に影響を受けていた大川周明は、『日本二千六百史』(昭和十四年七月)を出版、「暫く勤王論を離れて、其の人物に就てのみ見れば、尊氏兄弟は実に武士の上に立ち得る器であった」と書いた。この尊氏評価は、彼の国体論、道元論、頼朝論などとともに蓑田胸喜から激しい攻撃を受け、結局大川は同書の改訂を余儀なくされている。

不幸な生い立ちと抵抗・自助の精神

 国体への誇りと尊皇心を持ちつつも、官製イデオロギーに従うことを潔しとしなかった愛山について、徳富蘇峰は次のように評した。

 「君や雷同せず、詭随せず、盲従せず。如何なる場合に於ても、一個の見識を持し、一個の身分を持し、未だ曾て他の団体に向て、自我を没入したる事あらず」(徳富蘇峰「愛山山路弥吉君」(『山路愛山集』筑摩書房、昭和四十年)四百十五頁)

 愛山の徹底した抵抗精神は、その生い立ちによって定められたものだった。愛山は、元治元(一八六五)年十二月二十六日、幕臣山路一郎の子として、浅草の天文屋敷に生まれた。彼の人生を待ち受けていたのは、不幸の連続だった。慶応三年には、幼い愛山を残して母が病死する。その翌年五月、父一郎は幕府方として彰義隊に加わり敗北、僅か四歳の愛山は祖父母とともに静岡に移った。失意の父は酒に溺れ家事を省みなかった。敗軍の子と呼ばれ、父との葛藤を抱え、貧しい生活を強いられた。後に愛山は、「吾れは極めて貧しくそだちたれば衣物なども見ぐるしかりつるなり。されどそを苦しとは思はざりき。大抵幼き時は筒袖をのみ着せられて、袖ある衣服をきざりしかば、そを着たるものを羨ましく思ひぬ」と振り返っている(『懐旧談』)。

 明治十一年には、学費が続かず私立小学校を退学しなければならなかった。それでも、自らの人生を切り開こうと苦闘した。そんな彼を鼓舞したのが、三河武士や徳川家康の事績や伝記であった。十五歳のときには、サミュエル・スマイルズ『自助論』の翻訳『西国立志編』(中村正直訳)と出会い深く感動、「天地の問僕の如きものと雖も、脚を着くるの地ある」を知る。

 蘇峰は、「惟ふに君が反発的傾向、戦闘的気象、而して其の必然の結果たる自助的精神は、地に落ちてより以来、自から人事の何物なるを解せざる以前、業に已に其の根帯を、君の方寸に措きしならむ。而して是れ実に君の一生を、一貫したる大動力たりし也」と回想している。また、蘇峰は「君は本来無一物也。学閥あるにあらず、藩閥あるにあらず、金閥あるにあらず。否な総て是等の障碍を排して、其の運命を開拓せり」と称えた。

 十九歳になった愛山は、英語を学ぶために日本メソジスト教会の牧師平岩愃保に入門、明治十九年に平岩から洗礼を受けることになる。そして、明治二十二年二月に祖母とともに静岡から上京した愛山は、平岩の世話で東洋英和学校に学び、明治二十三年七月には袋井方面の伝道を命じられている。

 抵抗と独立の人生を歩もうとする愛山にとって、キリスト教の長所は「世の中と闘う」ことにほかならなかった。彼は、キリスト教について「世界全体の人間の弱点に反抗して……新しい理想を建て、其理想を以て人間世界に突喊し来つた」とも書いている(「キリスト教に就いて」)。一方、彼は膨大な量の本を読み、深い教養を身につけていった。特に、自我と宇宙とが本来的に一体だとするエマソンの汎神論的宇宙観に強い影響を受けている。

 明治二十四年にメソジスト三派の機関誌『護教』の主筆に就いた愛山は、翌年蘇峰に誘われて民友社に入り、国民新聞記者となった。蘇峰と初めて対面したのは、明治二十二年の紀元節の日であった。「ここで働かせてほしい」と言う愛山に、蘇峰は「何か書いたものを持ってきたか」と問うた。すると、愛山は「持っては来ていないが、今ここで書く」と言って、堂々たる速筆を蘇峰に披露したという。

 平民主義を標榜する民友社は、文明開化の貴族的の臭味を批判し、外面的、物質的近代化に対して、内面的、精神的近代化を重視していた。愛山は、そうした民友社の姿勢に魅かれていた。彼は平民主義を輸入思想ではなく、日本の歴史の中に見出した。これもまた、自らの伝統の中に普遍性を探ろうとする愛山の一貫した姿勢に基づくものである。

 明治三十年二月に民友社を退社するまで、愛山は『国民新聞』、『国民之友』に、政治と史論の記事を書いた。出社するや猛烈な勢いで原稿を書き始め、書き上げると、誰彼構わず、大きな声で話しかけたという。その話が面白いので、周囲の仕事の邪魔になる。社員の草野茂松は、ついに我慢できなくなり、愛山に「少し静かにしてくれ」と抗議したという。それ以来、愛山は話が熟してくると、「茂松さん勘弁して下さい」と謝るのを常としていた(坂本多加雄『山路愛山』吉川弘文館、昭和六十三年、七十四頁)。

 現実の社会の動向に強い当事者意識を持っていた愛山の史論は、過去を現在に引き寄せようとする姿勢で貫かれていた。それは、「今猶古の如く、彼猶此の如し」、「古を以て今を論じ、遠きを以て近きを語る」という彼自身の言葉に明確に示されていた。民友社退社後、毛利家編纂所で『防長回天史』の編集に携わったことも、独自の史論確立に影響を与えた。

国体としての社会主義

 明治三十二年一月、愛山は国家社会主義という言葉を用いて、富豪を威服すべきだと主張した(『国民新聞』明治三十二年一月一日)。木村時夫が指摘した通り、愛山の社会主義は儒教的徳治主義=仁政に基づくものであり(木村時夫「山路愛山の国家社会主義 一」『早稲田人文自然科学研究』昭和四十二年六月)、その意味では、徳治の理想に基づいて、明治三十年に「国家的社会主義」を唱えた陸羯南の立場に通ずる部分が多い。遡れば、明治十五年に東洋社会党を結成した樽井藤吉の「東洋社会党」の発想にも近い。実際、愛山の同志中村太八郎は、陸や樽井とともに明治三十年に発足した社会問題研究会に参加していた。

 愛山には、独立、自助の精神を維持したいという思いもあった。坂本多加雄は、「何よりも個人の自主性と独立を尊び、『独自一己』の『英雄』を理想とする考え方と、他方では、こうした考え方が現実には実効性を持たないという認識から、むしろ国家の権力を強化して状況を根本的に改めようとする意図とが共存し互いに鬩ぎあっていたと見ることができる」と指摘している(坂本『山路愛山』百五十三頁)。

 一方、愛山は、国民生活を守るために、国内の平等を実現するだけではなく、対外的に国家を防衛することが重要な課題だとの認識を強めていた。明治三十六年一月に『独立評論』を創刊した愛山は、対露主戦論を前面に出し、日露戦争が勃発すると同誌を『日露戦争実記』と改題(明治三十八年二月まで)、戦争の詳細を伝えた。そして、ポーツマス講和条約調印を控えた明治三十八年八月二十五日、彼は国家社会党結成に踏み切る。『独立評論』に掲載された同党宣言は次のように謳った。

 「……二千五百年間君臣の情、家人父子の如く其間未だ嘗て一毫の芥蒂なく君主の心は則ち臣民の心たり。二の者にして一、一にして二、膠漆の如く水魚の如く之を千秋万才に伝えんと期する者は是豈日本国体の精華にして吾人の世界に向つて誇揚せんと欲する所にあらずや。

 我国家社会党は此の如き国体の長所を発揮し、歴史の指示に基き共同生活を以て治国の精神とし、此政綱によつて現代の時務に寄与せんと欲するものなり。

 貧富の懸隔漸く甚しくして階級的争闘の数ば生ずるが如き、大富豪の現出したるが如き、産業上に於ける壟断専占の弊次第に甚しく自由競争の余地全く杜絶せられんとするが如き」

 愛山の社会主義は、「皇室を人民の父母とする」との信念によって支えられていた。それを、『続日本紀』にある、「兆民を優労す(天平二十年)」「四海に君臨し、兆民を子育す(宝亀四年)」「宇宙に君臨し、黎元を子育す(同五年)」「朕は百姓の父母たり(天応元年)」「朕は民の父母たり(延暦六年)」といった詔勅の一節によって裏付けようと試みた。

 愛山は、マルクスの分析に学びつつも、資本家と労働者の階級闘争という考えを退け、いずれの時代にも国家、豪族、人民の三階級があるとする三元論を採った。国家の威力が強く他の二階級を圧迫するときには豪族と平民が協力して暴圧を抑止し、豪族だけが専横で平民を虐遇するときには国家が平民と呼応して豪族を抑えるとの考え方である。

 君民一体の理想を求めた愛山は、すでに「皇室の尊栄」(明治二十七年)で、「天皇は実に此の善良なる、人民の心を心とせる也。誰か天皇は、民心の権現にあらずと云う乎。誰か人民の心は、即ち天皇の心にあらずと云う乎。皇室の尊栄は、即ち此上下の純白なる心事相吻合致一したる最大美観より来る也」と書き、大化の改新を最も明白な皇室の尊栄の事例として挙げた。「日本に於ける人権発達の痕跡」(明治三十年一月)においても、仁徳天皇が吉備の国に幸した際に詠じた

  山県に 蒔ける青菜も 吉備人と

     共にし摘めば 楽しくもあるか

を引いて、「日本の皇室は建国の当初において人権発達史の権化だった」と書いた(『山路愛山集 一』三百五十九頁)。

 こうした立場に立ち、愛山は、忠君愛国の精神は強い個人の抵抗の精神に基づくべきだと主張した。そして、強い個人が集まってこそ強い国家ができるのだから、国家の意思をのみ国民に強いるべきではないと説いたのである(『世界の過去現在未来』四百六十九~四百七十一頁)。

 大正五年秋、愛山は『信濃毎日新聞』主筆を引き受けることになり、翌大正六年二月に信州各地を講演して回った。この旅行が愛山の健康を害した。三月十四日激しい下痢症状に襲われ、心臓にも異常をきたし、翌十五日夜死去した。その直前、「明治天皇のお在します国に行かん」と言い残したという。

 大正四年夏、愛山は丹毒で入院、九死に一生を得ていた。これを機に決意したのが、『日本人民史』の執筆であった。その完成を前に彼は力尽きた。蘇峰は、「此書や君が天下後世に寄与す可き、一大精神の凝塊にして、記者の如きも亦た、其の必成を慫慂して、已まざりし一人なり」と悔やんだ。

 愛山は、同書執筆のため、渋谷村大字中渋谷(宇田川)の自宅に膨大な資料を積み上げて、執筆に励んでいた。愛山が死去したとき十二歳だった三男平四郎は、「中渋谷村には、先に竹越三叉が居り、後から国木田独歩も移って来て、宛然民友社村の観があったらしい」と振り返っている。当時この辺りには豊かな自然が残り、独歩はここでの生活をもとに、『武蔵野』などの名作を残した。それから九十三年、大きく様変わりした渋谷。パルコ・パート三とシネマライズの前から、センター街に向かって坂を下っていくと、「山路愛山終えんの地」の立て札が忽然と姿を現す。抵抗精神を漲らせ、エネルギッシュに執筆する愛山の姿が目に浮かんできた。

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