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大谷光瑞─「亜細亜主義の行者」と呼ばれた探検家

欧亜横断鉄道構想を提唱

 「我帝国の目的とする所は大義により東亜の新興を計り先づ支那をして富国富民ならしめんとす」

 昭和十五年十月、大谷光瑞は『大谷光瑞興亜計画 十』において、このように記した。同書は、昭和十四年から十五年にかけて執筆された全十巻の大著で、中国、満洲、南洋などの産業開発計画を具体的に論じたものである。アジア各地の産業に関する膨大な知識を蓄積してきた光瑞だからこそ、なし得た仕事である。彼のアジアについての精通ぶりを、徳富蘇峰は次のように語っている。

 「亜細亜の隅々に於けるところの知識は、吾々が、銀座からして、山下町に於けるところの、知識以上と思ひます。地理、歴史、天文、気象、是等のことはもとより、其他植物、動物、もしくは鉱物等の学問については勿論、亜細亜に開する一切のことについて、深い研究と調査を積んで居られます」(田中末廣『興亜の先覚大谷光瑞師』愛国新聞社、昭和十四年、八十二頁)

 『興亜計画』は、戦後の歴史観においては、わが国の「帝国主義」政策を支えた膨張主義的な主張として断罪されがちだが、光瑞にとってアジア人が協力して産業開発することこそが、欧米列強の植民地支配を打破するために不可欠の方策であった。大谷光瑞猊下記念会が編纂した『大谷光瑞師の生涯』は、光瑞の生涯は二つの目的を果すため捧げられたとし、次のように書いている。

 「第一の目的は、世界宗教中の最も広大無辺にして、深奥妙理ある仏教を振興し、之を以て精紳的に東亜民族の興隆を促すことである。第二は東亜の凡有る資源を開拓し、東亜民族の生活を向上せしめ、東亜をして自給自足、現在の植民地的状態を一掃し、以って東亜の隆昌をはかることである。而して精紳的にも、物質的にも日本をして実に此の東亜一大振興運動の中心勢力たらしめん為めであったと察せらる」(『大谷光瑞師の生涯』大空社、平成六年、百三頁)

 光瑞は、『興亜計画 四』において「今日我帝国大義に仗り隣邦を助け庶政一新の実を挙げ漢唐の文化を再興せしむ。…今日欧亜連絡の大鉄道を敷設するは決して徒爾に非らず」と書いている。鉄道でアジアを繋ぐ計画を練っていたのである。その幹線は東京から始まり、中国に渡り、大陸を通り、バグダッド鉄道に繋がり、そして最後にイスタンブルにまで届くという構想だ。龍谷大学で光瑞の研究に従事したトルコ人学者エルダル・カ・ヤルチュン氏(ボアジチ大学歴史学部アジア研究所研究員)は、この構想に注目し、「アジアの両瑞をこのように繋げることによって、とにかく諸国民間の交流を深めることを狙っていた」と評している(柴田幹夫編『大谷光瑞とアジア』勉誠出版、平成二十二年、三百九頁)。

 その視野がトルコなどのイスラム世界にまで及んでいたからこそ、光瑞はこのような壮大な構想を描くことができたのではなかろうか。

 すでに、光瑞は明治三十四年七月初めてトルコを訪問しているが、トルコ共和国が建国されると、同国に強い関心を抱くようになる。例えば、大正十三年二月十四日の講演で「私はヨーロッパの内の所諸近東のバルカン各地方、アジアトルコ地方が、将来非常に面白くなると思いまして、日本の商人があの辺にどう目を付けているかと色々調べて見ました」と語っている。昭和三年には、弟子をトルコに派遣し、繊維産業の中心地ブルサで、合弁の紡績工場を設立させている。ただ、日本の政策がパン・イスラム主義重視の方向に向かい始めると、政教分離を徹底しようとしたトルコとの関係は不安定化し、光瑞の事業は昭和八年で中断を余儀なくされた。

 現在のアジア横断鉄道計画の起源は、昭和三十五年に「国連アジア極東経済委員会」がイスタンブルとシンガポールを結ぶ鉄道路線の計画を発表したことにあるが、その二十年前に光瑞は欧亜横断鉄道を提唱していたことになる。ちなみに、同時期、鉄道省の湯本昇鉄道監察官も『中央アジア横断鉄道建設論』を著していた。善くも悪くも、日本人は興亜、さらには防共の視点からのグランドデザインを描いていた。

 ヤルチュン氏は、大谷はその人生を仏教関係、農業関係、アジア関係の三つに賭けたと捉えているが、『興亜計画』のうち第六巻から第九巻までは「熱帯農業」に割かれており、彼の農業振興への強い思い入れが窺われる。彼は、自らシンガポールで農園を経営し、ジャワ島で農林工業株式会社を設立し、セレベス島でコーヒー園を開設するなど、東南アジア各地で多様な農園経営を試みていた。

 『興亜の先覚大谷光瑞師』を著した田中末廣は、アジア主義を提唱した人は光瑞以外にもいるが、光瑞ほど大胆に、卒直に、真摯にアジア主義を説き、身をもって実践した人はいないと強調し、光瑞に「亜細亜主義の行者」の尊称を与えたいと書いた。

 光瑞は、明治九年十二月二十七日に、西本願寺第二十一世門主の大谷光尊(明如)の長男として生まれた。早くも七歳のときに、父光尊から与えられた世界地図を見て、「小日本を大日本にしなければいけない」と感じたという。

 明治十九年に東京へ出て学習院に入学、その後、二十三年には神田の共立学校へも入学したが、軍事教育や校風にあきたらず両校ともに退校している。京都へ帰った後、個人指導によって国内外の古典や宗典、書道、歌道などを学んだ。明治二十四年、大谷本廟の中へ移され、足利義山、前田慧雲らの碩学に教えを受けた。その後、ほぼ独学で、歴史、地理、植物、農学、工学、地質学など、広範な知識を吸収した。

 二十二歳になった明治三十一年一月、光瑞は侯爵九条道孝の三女籌子と結婚する。籌子は後の貞明皇后(大正天皇の皇后)の姉にあたる。

仏教復興と興亜に支えられた探検

 明治三十二年一月、光瑞は初めての外遊として清国巡遊に出かけた。一月十九日に神戸港を出発、二十二日に上海に到着した。香港、広東、漢口、北京などを訪れ、五月三日に神戸港に戻った。

 海外に雄飛しようとする光瑞の心情を、杉森久英は見事に描いている。日本人の外国移住が盛んになったが、現地で死者が出たら誰が弔ってやるのか? どこに葬るのか? 法会はどうするのか? そのような強い疑問から、光瑞は海外に住む日本人のために、寺院と僧侶の網の目を作ってやらねばならないと考えていた。

 一方、光瑞は中国の仏教の現状に危機感を抱いていた。もともと、日本の仏教の源流は中国に発している。その本家本元で、いま仏教はどうなっているのか。中国の仏教は、衰退の極に達して、ほとんど昔日の面影をとどめていないという者もいる。そこで、光瑞は、中国の仏教に生気を吹き込み、もう一度立ち上らせるのが、日本人の義務ではないのかと考えていたという。

 実際、光瑞は「支那は日本仏教の為には第二の祖国なり、現今日本流布の教典は皆支那訳の書なり、而して彼れ今仏教衰頽して見るべきものなく我より却て之を弘通せんとす、……是に於て乎、我より進んで彼れに至り、教田を拓き仏種を蒔くの必要を生ずることとなる」と言い、今の中国は仏教が廃れてしまっているので、日本の方から過去とは逆に仏教を伝えなければならないと説いていた。

 また彼が、仏教復興を興亜と重ね合わせていたことは、次のような言葉に示されている。

 「清国と我国とは啻に同文同種なるのみならず又実に同一仏教を奉ずるの国なれば彼にして若し一朝瓜分の虞あらんか我独り之が影響を蒙らざらんや、然ば則其蒙を開導し其陋を啓発し其をして文明の域に進ましめ依て以て列強が窺窬の念を未前に防遏せん事は固より善隣扶植の大義なりと云へども抑亦国家自衛の必要上止むべからざるものあるに因ると云はねばならぬ」(西本願寺教学参事部遍『清国巡遊誌』「御親論」明治三十三年、七頁)

 さらに、彼の血脈が、海外雄飛に駆り立てたとも言い得る。杉森は「彼はもともと血の気の多い男である。先祖の親鸞も、強情我慢の、図太い闘志にあふれた男であった。蓮如も、証如も、一生を戦いの中にすごしたといっていい。本願寺には、闘争の血が脈々と流れている」と書いている(杉森久英『大谷光瑞』中央公論社、昭和五十年、五十七頁)。

 やがて、光瑞の視線は中央アジアへ熱く注がれるようになった。ロンドン滞在中に大英博物館に通って得た知識が、光瑞の情熱を支えていた。中央アジア─西域は、古来東西文化の交通路であり、仏教の栄えた地方である。ここに埋もれている古経、仏像、古美術品などは、いずれも仏教東漸の歴史を研究するのに重要な材料となる。ところが、これらを探索し、発掘しようとしているのはキリスト教徒の西洋人ばかりで、一人として東洋人がいないことに光瑞は強い疑問を感じていた。この仕事は東洋人が担うべきだと彼は考えたのである(前掲書七十四頁)。

 明治三十五年、光瑞は自ら隊長となり、渡辺哲信、堀賢雄、本多恵隆、井上弘円とともにロンドンを出発、ロシア領を横断して新疆に入った。これが、第一次大谷探検隊である。光瑞の遠征について、『大谷光瑞の生涯』は「所謂文化的遠征であって、是等の地方に埋没せられたる古代の文化を発掘し、再生し、探討し、因って以て新たなる研究資料を得んことを務めた」と書いている。

 父光尊の訃報に接したのは、光瑞がカルカッタに滞在していた明治三十六年一月のことであった。光瑞は探険行を中止して日本に戻り、西本願寺第二十二世の門主の地位に就き、同時に本願寺派管長となった。

 光瑞の探検は、興亜の使命と密接に関わっていたからこそ、外交的な動きを伴うものでもあった。特に光瑞のチベットへの接近は、国際関係を左右しかねないほどの重要性を帯びていた。明治四十一年八月二日、光瑞の弟で、西本願寺の清国開教総監の任にあった大谷尊由は、香川黙識、堀賢雄らとともに、清国五台山でダライラマ十三世と会談している。このお膳立てをしたのが、外務省や参謀本部と繋がりのあった寺元婉雅(東本願寺)であった。白須淨眞氏は、この時期の寺本らの動向から、在清国日本公使館が推進していた日本のチベット施策、つまり露清の力を排除したチベットの独立のプログラムが比較的明瞭に垣間見えると指摘する。

 また、白須氏は、五台山会談によって十三世と光瑞との間にはアジアの仏教として公式の、しかも信頼に足る関係が成立していたとし、「それはラサ侵攻以来一三世と対立を続けてきた英国も、一三世をつかみきれない清国も、一三世の期待を裏切った露国も共に持ち合わせない、つまり当時の国際政治社会にあって唯一のものであった」と重視する(白須淨眞「一九〇八(明治四一)年八月の清国五台山における一会談とその波紋」『広島大学大学院教育学研究科紀要 第二部』平成十九年、六十、六十二頁)。

 また、光瑞は明治四十三年には青木文教をチベットに派遣、やがて青木はチベット政府の政治顧問を務めることになる。

 一方、光瑞は参謀本部で活動していた日野強の活動を支援していた。明治三十五年に参謀本部に入った日野は満韓国境方面に派遣され、特務活動に従事した。日露戦争の際には、ロシア軍の撹乱工作を経験、明治三十九年七月に新疆視察の内命を受ける。日野は西安(長安)に向かう途中で、光瑞に邂逅している。日野が著した『伊犂紀行』には「予は痛く伯の懇切に感激せり。伯の好意は、これに止まらず、喀什喝爾駐在の英国貿易事務官マカートニ氏を初め、英領印度における紳士への紹介状を与えられ、かつ写真器械一組、時計一個をも貸与せられたり。特に記してここに伯の好意を謝す」とある。光瑞流の興亜の実践が、列強の勢力拡張阻止とそのための情報収集と密接に結びついていたことを物語る。落合莞爾氏は、日野に対する新疆視察の司令は、光瑞の上司たる「京都皇統」すなわち堀川辰吉郎から出ていたと見る(落合莞爾「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」『ニューリーダー』平成二十二年二月、九十八頁)。

 その後、光瑞は、橘瑞超、野村栄三郎による第二次探検隊(明治四十一年~)、橘、吉川小一郎による第三次探検隊(明治四十三年~)を派遣し、数多くの貴重な資料を収集することに成功した。第二次では、橘が新疆のロプ湖北岸ローラン(楼蘭)で「李柏尺牘稿」を発掘している。紙が普及し始めた極めて初期の遺品である。第三次では、新疆ウイグル自治区トルファンでミイラを発見するなどの成果をあげている。

「亜細亜経綸の殿堂」二楽荘

 光瑞は、明治四十二年に神戸の六甲の山腹に別荘「二楽荘」を建設した。「二楽」の名には「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」という光瑞の意図が表現されている。

 二楽荘の外部はインドのアクバール大帝時代の様式を模し、中には支那室、亜剌比亜室、印度室、英国封建時代室、埃及室などが設けられた。亜剌比亜室は、スペインのアルハンブラ宮殿内の王室の壮観を表現している。アクバール大帝時代の大臣室を模したという印度室には、インド壁画や黒色大理石に宝石を飾った精巧な大額などが飾られていた。これらの各文明室には、大谷探検隊の収集品も展示された。

 二楽荘について、田中末廣は「興亜の理想に燃ゆる日本人が、かつて描いた最も荘厳、最も雄大なる夢の一つであつた」と書いている。田中はまた、「ああ、亜細亜奪還の悲願!! この理想、信念がつもりつもつて…二楽荘の建立となつた」とし、これを「亜細亜経綸の殿堂」と評した。さらに彼は、およそアジアについて当時の日本として収集し得られる一切のものが、この山上に集められていたであろう、また絶えず生きた東亜問題が計画され、その方面の人物が引っ切りなしに出入りしていたと指摘し、「そこには、蒙古の学者も居れば、西蔵の僧正も居り、ビルマの坊主も居れば、支那人のコツクや、美少年の英国人の給仕も居た」と、その様子を活写している。

 ここでいう「ビルマの坊主」とは、民族独立運動の指導者ウ・オッタマ(拙著『アジア英雄伝』参照)に連なる人物に違いない。光瑞は明治三十三年から三年間にわたりロンドンを拠点にヨーロッパ各地を視察していたが、この時代にオックスフォード大学に留学していたオッタマと出会っていたのである。光瑞は、「お互いにアジアのために働かねばなりません。貴方がその気持ちがあるのならわれわれの同志ですよ、しっかり勉強してください」とオッタマを激励したという。オッタマは、日英同盟を結びイギリスと協調する日本の外交姿勢に疑問を感じることもあったが、やがて日露戦争に直面し、興亜における日本の役割の大きさを確信して、明治四十年に日本を訪問、光瑞のもとに赴いた。そして彼は光瑞の支援を受けて仏教大学(後の龍谷大学)に寄宿し、仏教学者の禿氏祐祥らとの親交を深めた。

 一方、光瑞は仏教思想を根底に置いて、欧米人の価値観に対する懐疑を深めていた。大正元年に刊行した『見真大師』において、「誤れる近世の思想を論駁す」の一章を割き次のように主張している。

 「欧米人は決して優良なるものに非らず。特に現時最も然り。現世執着の謬想は欧米人最も甚しく、皆人間を本位として万事を観察せんとする思想を有せり。其一の米人の如きは殆んざ愚劣にして言ふに足らず」

 二楽荘は栄華を極めたが、大谷家の財政は破綻しつつあった。西域探険に費やした経費はあまりにも莫大であった。それによる財政悪化を食い止めるために各種の投資も試みられたが、いずれも失敗した。こうした中で、本願寺に関する疑獄事件も発生する。ついに大正三年五月、光瑞は責任をとる形で、西本願寺住職と真宗本願寺派管長を辞任した。二楽荘は、光瑞と旧知の久原房之助に売却されたが、昭和七年に不審火によって焼失してしまった。

 しかし、本願寺を追われた後、光瑞はむしろ水を得た魚のように自由に動き回るようになった。上海などを拠点として、アジア各地で精力的に活動した。柴田幹夫氏が「光瑞は本願寺の大伽藍の中で満足している人物ではなかった」と書いている通り、彼の多様な活動は本願寺の立場を超えてこそ発揮された。

 大正五年末、光瑞は『慨世余言』を刊行、その冒頭で「夫れ亜細亜主義は、天の日本民族に与ふる使命なり」と明言した。当時、彼は上海仏租界アルバート路(今陜西南路)に居住し、孫文と交流していた。孫文との関係は、大正二年に孫文が日本を訪問し、西本願寺に光瑞を訪問して以来のものである。光瑞は大正七年には、孫文から依頼され国民党政府最高顧問に就いている。

「日支の親善は、東洋永遠の平和の要諦なり」

 この年四月、光瑞は旅順に策進書院を開設、日満の青年を集め、日支両国の融和親善を図ろうとした。このとき、旅順図書館に赴任していた下中彌三郎は、光瑞に認められて、その蔵書の整理保管を依頼され、策進学院で世界史を講じている(『下中彌三郎事典』平凡社、昭和四十年、百三十四頁)。

 一方、光瑞は、支那問題解決の前提として、南洋特に蘭領に着手することが急務だと考えていた。こうした光瑞の考え方に関して、評論家の高島米峰は、次のように語っていた。

 「あるいは今後、幾十年かの後、南洋の天地に南本願寺という大殿堂高く聳えて、親鸞上人の真精神が、ここに活躍し来ることがあるかも知れない。そして、更に、一歩を進めて、精神的汎亜細亜主義が、南洋を発祥地として、全世界を風扉するようなことが起って来るかも知れない」(杉森『大谷光瑞』三百七頁)

 光瑞は、興亜の志を抱いてアジア各地を飛び回った。しかし、日支関係は光瑞の思い通りには進まなかった。欧米列強は日本の台頭を阻止するため巧みに攻勢をかけてきた。大正十一年にはワシントン会議の一環として九カ国条約が結ばれ、中国の主権・独立・領土的行政的保全の尊重、中国における商工業上の機会均等、勢力範囲設定の禁止などが約された。

 これに対して、光瑞は『対支横議』を刊行し、支那の主権を尊重することは、官匪、軍匪、政匪、学匪、盗匪などのためにしかならず、支那の良民は決して利益を蒙らないと断じ、「その首悪実に米国政府にあり。而も之に賛同せる日、英両国政府も亦責なきに非ず」と説いた。さらに彼は、日支親善とは支那の良民と親善を期すことであり、匪類と親善しようとすることではないと主張した。

 やがて、支那事変に直面すると、光瑞は『支那事変善後方策』を発表した。ここで、彼は日支親善の障害となっているのは、自国の利益を増大させようとして支那に干渉するロシア、イギリス、フランスの存在だと説き、次のように書いた。

 「夫れ日支の親善は、東洋永遠の平和の要諦なり。古に曰く、兵は凶器なり、聖人己を得ずして之を用ゆと、誠に至言なり。今回の事変の如きは、漫に之を行ふべからず、之を再びし、之を三びするが如きは慎まざるべからず、戒ざるべからず、故に今回の事変の善後所置は、この原則に準拠して定めざるべからず。是れ、聖勅に奉答するの所以なり」

 村上重良から「日本帝国主義に随伴した仏教的アジア主義者」とも評された光瑞は、確かに対支強硬派と位置づけられてきた。また、柴田幹夫氏は「中国革命に親近感を持ち、またアジアの各地で起こった革命運動に協力を惜しまなかった光瑞と、対外的には非常に強硬路線であった光瑞という背反をどうとらえるか、これが未解決の大きな課題として浮上しよう」と問題提起している。だが、杉森久英は「根本においては、日中共同してアジアを建設すべしという考えに変りはなかった」とし、光瑞にとって、中国は切っても切れぬ運命によって結ばれた土地であったと書いている。

 いずれにせよ、一九三〇年代に入り政府が興亜外交に傾斜するにつれ、光瑞に対する期待は高まっていった。近衛文麿は、光瑞を外務大臣に迎えようとしたともいう。しかし、光瑞が直接政治に関わることはなかった。ただ、昭和十五年に近衛首相に請われて内閣参議を務めている。

 昭和十六年五月、光瑞は体調を崩して、築地の病院に入院、翌月退院したが、引続き日本に留まり療養を続けていた。同年十二月八日に大東亜戦争が勃発、翌昭和十七年三月、彼は政府の大東亜建設審議会委員を委嘱された。この時期、光瑞は渡辺渡陸軍大佐の要請で、「馬来半島善後処理方策」をまとめている。だが、同年六月再び発病、東大病院で診断を受けたところ、膀胱に腫瘍ができていた。二回にわたって手術を受け、十月に上海に戻った。昭和十八、十九年の二年間はほとんど中国で過していたが、昭和十九年十二月、東條英機内閣の顧問を委嘱されて東京へ戻った。しかし、光瑞は東條政権を批判するようになり、昭和二十年四月、内閣顧問を辞任する。

 このとき、彼は再び中国に戻ろうとした。周囲の者は、危険だと引き止めたが、光瑞は「私はもともと、支那に骨を埋める決心なのです。日本が敗けるときこそ、私は支那にいなければならないのです」と言って、東京を発った。終戦時、光瑞は大連にいた。抑留を余儀なくされていたが、昭和二十二年三月に無事日本に帰国、別府の温暖な気候と明媚な風光が気に入り、ここを永住の地と決め(杉森『大谷光瑞』三百七十八頁)、別府市長の脇鉄一とともに別府の国際観光都市化計画に尽力した。

 昭和二十三年夏、光瑞の病状は悪化、十月四日危篤に陥り、翌五日午後、八十一歳にして遷化した。杉森久英によると、光瑞は自分の死後について、常に次のように語っていた。

 「私が死んでも、墓は作る必要はありません。宗祖の申されたように、遺骸は焼いて灰にして、海に撒いて下さい。しかし、その海は、どこの海でもいいというわけではありません。東支那海です。宗祖は加茂川にといわれましたが、私の灰をまくところは、東支那海です」

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