角さん

 私は、旧中選挙区時代の田中角栄さん(角さん)の選挙区の生まれだ。
 
 角さんは、私の亡くなった父と同い年だった。しかも、角さんも私の父も、尋常高等小学校卒業という学歴まで一緒だった。
 
 したがって、父は角さんの大ファンだった。昭和47年に角さんが総理大臣になった時には、自分のことのように喜んでいた。
 
 角さんは、「コンピュータ付きブルドーザー」と言われ、官僚の人心掌握術は並ぶ者がいないと評されていた。首相時代に日中国交回復を成し遂げた功績は後世に名を残すものであった。
 
 一方で、金権政治の権化と言われ、田中金脈問題によって結局首相を辞任することになった。その後、明らかになったロッキード事件では逮捕・収監され、最終的には有罪判決が確定した。
 
 ロッキード事件後も、キングメーカー、影の総理として、政界に絶大な権力をふるってきたことはご存じのとおりである。
 
 このあたりの経緯は、いろいろな書物等に書かれているだろうから、そちらに譲る。
 
 私が今回書きたかったのは、角さんの「ふるさと愛」についてである。
 
 角さんの自宅は、東京都文京区目白台にある通称「田中御殿」である。先ごろ、火事で全焼してしまった。角さんはあの世で残念がっていることだろう。私は中に入ったことがないが、庭には大きい錦鯉がたくさん泳いでいる池があり、広い応接間では陳情客が引きも切らない状況だったそうだ。
 
 私の田舎(○○市)には○○川が流れており、これが昔から「暴れ川」だった。梅雨や台風シーズンになると、ときどき川が氾濫して大きな被害が出た。私の実家は過去に床上浸水1回、床下浸水2回の被害を受けている。
 
 ここからは人に聞いた話なので、不正確なことが含まれているかもしれないが、この「暴れ川」の大規模改修をお願いするために、市の人間が田中邸に陳情に行ったそうだ。
 
 目白御殿の応接間の待合室に通され、順番を待つ。順番が来て角さんにお目にかかると、角さんの後ろには秘書団がずらっと居並んでいる。
 
 「○○(私の田舎の市)の××でございます。」と挨拶をすると、「おお、○○か!△△建設の△△は元気らかね?」と、田舎なまりの言葉で尋ねてくる。標準語も覚束ない(?)田舎の人間にとって、角さんから発せられる田舎なまりの言葉を聞くとほっとする。
 
 「先生、早速ではございますが、うちの○○川の件で…」と、川の改修工事について説明を始めると、途中で「よっしゃー、わかった。」と言って、手元にある呼び鈴(ホテルのフロントなどにあるチンと鳴らすもの)を鳴らした。これは「もう帰れ」という合図なのだそうだ。
 
 陳情に来た市の人間は、わずか5分ほどしか話を聞いてもらえなかったので、本当に川の改修工事をやってもらえるかどうか疑心暗鬼になってしまったそうだ。
 
 ところが、後日、早速角さんの秘書から連絡があった。そこで実際に改修工事に関する問い合わせがあり、その後、市制始まって以来の大規模改修工事が行われることになった。
 
 角さんの呼び鈴チンは、「よし、わかった。これから動くから安心しろ」という合図でもあった。とにかく動きの速い人だった。
 
 当時、関越自動車道などの高速道路はなく、東京から新潟へ行くためには国道17号線で新潟・群馬県境の三国峠を越えていかなければならなかった。あまりにも時間がかかるため、三国峠には休憩するための入浴施設があった。多くのドライバーがそこで長時間の運転の疲れを癒してから再びハンドルを握った。
 
 ある時、○○市の人間が、三国峠の入浴施設に入ったところ、偶然風呂で角さんを見つけた。
 
 彼は「こんなことは一生の中で一度きり」と考えて、意を決して角さんのそばに行き「先生、○○市の××でございます。一生の思い出に背中を流させてください」とお願いしたそうだ。
 
 角さんは、「そうか」と言って、快く背中を向けてくれた。彼は自分の記憶に刻もうと一生懸命に背中を流した。
 
 背中を流し終わったところで、角さんがこちらを向き「背中を出せ」と言った。
 
 なんと、角さんが彼の背中を流してくれたそうだ。
 
 こんなことは、エリート官僚や二世議員にはできないだろう(たぶん)。
 
 角さんに背中を流してもらった彼は「もう、田中先生のためなら命もいらない」と思ったそうだ。
 
 彼の人心掌握術の原点はこのようなところにあったと思う。

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