空の写真への違和感

最近、空の写真集を収集していた。
書店へ行くたびに空の写真集を手あたり次第めくり、好みの空を集めたものを探しては買っていた。

どうしてこの、空を沢山見たい衝動に駆られたのかはわからない。

元々空は好きだった。曇りの日も夕暮れも星空も。どの空を見るのも好きだったが、見てすぐに好きだと感じるのはやはり青空。薄い青色で、スカイブルーと名付けられた色。その色が視界に入った途端綺麗だと脳がつぶやく。

写真を撮るときもやはり空の写真が多くなる。
あの空の色を残したい。そんな気持ちでシャッターを切った。
だからフィルムカメラで撮る空が好きなんだと思う。デジタルで撮るよりも澄んだ色味が、更に調合されて大好きな色になる。
どこかで、フィルムカメラの写真から出る色の波動は目に心地よく映ると読んだことがあったな。
おそらくそこらへんも関係しているのかもしれない。

結局は4冊ほど手元に集まった。
どれも青色の空が写されたものだった。

それらの写真を見ても、どうものめりこめなかった。
自分で空を見て、シャッターを押すあの爽快感がダイレクトに得られなかった。
写されている空はどれも広大で澄んでいてそこに自分が立ったのなら、きっと感嘆を漏らすだろうと思えるものばかりであった。
しかし自分と写真との間には、見えない線引きがされていた。
この孤独感は何だろう。どうして自分の好きな色が目の前にあるはずなのに、シャッターを切るときと違うのだろうか。

ふとページの白い部分が目についた。
空の写真はページ一面に移されているわけではなく、どうしても余白が生まれる。
それが美術館の絵画が入れられている額縁のように感じた。

それに気づいたときに心の中ではまらなかったものがコトンと落ちてきた。
これは作品なんだ。他人が撮影した空の写真という名の作品。
自分がシャッターを切るときに目の前に広がるものとは違う。
視界に収まっていること自体がそもそもおかしいのだ。
自ら見上げた空は一面に広がっていて、私が認識できる範囲のさらに外側の外側まで広がっている。視界全てを使って空を抱きしめることができる。
自分が撮影した空の写真は、その体験を想起させるために物足りなさを感じなかったのだろう。
その追体験は他の人が撮影した写真ではできなかった。
なぜなら実際に自分はその空を隅々まで堪能していないのだから。

この白枠に収まっているのは作品としての空。
それは自分が目を通して感じた空とは別物の作品の空。
だから、私は美術館の絵画を眺めるときのように、1歩作品から離れ、枠組みに切り取られた空を目にしては、どうしようも埋めることができない距離感を感じたのだろう。

そこである名案を思い付いた。
実際に距離を詰めれば良いのではないか、と。
やることは非常に簡単。写真との物理距離を縮めるだけで良い。
そうすることで、今まで四隅まで見ることができた空が、眼球をあらゆる方向に回し、視界を精一杯広げてみても捉えきれなくなった。
そうすることで、自分の足がその写真に写された大地に入り込んだかのように、そして空が自分の頭上にあるかのように感じることができた。

少し大げさに言いすぎた。

だが、空の写真との距離感に新しい道を見つけることができたのは、自分なりの発見だった。
そして今まで感じていた写真に対しての違和感の正体についても、見つめ直す良い機会だったように思う。

これはただの自己満足に過ぎないが、自分だけの人生を豊かにするには十分ではないかな。


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