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臨川茶室で令和四年一月二日に

昨日二日に、新年の祝賀のご挨拶に吉田晋彩先生の臨川茶室に伺い、先生方の心尽くしのご馳走をのせた卓をお弟子さん達と囲み、酒の杯を交わしながら和やかな時間を過ごさせていただきました。



卓上のご馳走は、晋彩先生の故郷金沢に伝わる色とりどりの細やかな滋味深いお節料理、

床の間の掛け軸の前には、三方に乗せた神饌が供えられて。

右下に松ぼっくり(木)、左下に炭(火)、真ん中に白い砂(土)、左上に金物(金)、右上に卵(水)、と、
陰陽五行を象ったお供え。


そして、令和四年の年頭を飾る掛け軸は、
「虎嘯谷風起」(虎嘯(うそぶ)けば谷風起こり)。

寅年のお生まれの今年84歳を迎えられる晋彩先生が、還暦の時に、師 福富雪底老師よりいただいた書ということ。

嘯(うそぶ)くとは吠えることで、虎が吠えると谷に風が起こる。

私はこれを、先生の読みくだしのニュアンスから、このようなことではないかと考えました。

虎の一声という「一」が生まれると、風が起こるという「ニ」が生じる。
「一」が生まれると必ずそこに、関係するものだったり反対なものだったりの「ニ」が生じる。
「一」が必ず「二」になって、二つで比べたり争ったり依りかかったり迷ったりする。
例えば、“私が正しい”と「一」が生まれれば、別の人が“いや、私の方が正しい”と「ニ」が生まれる。
私たちの生きるこの世界は、常に「一」が生まれ「ニ」が生じて、二つに分かれる。
虎の吠える「一」、風が起きる「ニ」、その「ニ」にグラグラしなさんな、捉えられなさんな、ということではないかと、そう受け止めました。

現代社会でも、絶えず「一」は生まれ続けています。コロナウィルスもそう、私たちは「ニ」のところで振り回されてはいないか?捉えられ過ぎてはいないか?


それからまた、興味深い話をお聞きしました。

先生はお一人で稽古なさる時、利休さんや先師方がそこに座っておいでになる、そう想念を強くもってなさり、そうするとお点前や所作の捉えられや引っ掛かりが解けていくと、話して下さいました。

どういうことか私なりに考えてみると、

“先師方がそこにおいでになる”と強く想念をもち、精神の高みへと、捉えられいるものから解き放たれて魂となり、先師方の魂という宇宙の理法とつながって、お点前や所作が運ぶのではないか、私はそう考えました。

私は茶道を通じてそこをお習いするのだ、とあらためて強く思い、

今ここの一点に自分を解き放ち、今ここの仕事や生活に全身全霊を注いで、精神と身体の高みへと、そして宇宙の理法と霊性と私は一体に、

それが今私の歩み向かう道です。

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